タバコの煙を吐き出して、銀時は屋上のフェンス越しに校庭を見下ろした。
薄い色合いの砂地の上に制服の黒がくっきりと浮かび上がる。
校舎から流れ出るそれは散っては固まる動きを繰り返し、まるで細胞分裂のようにその範囲を広げてゆく。
地味なコントラストに華やかさを添えるのは誰かが手にした色とりどりの花束の色。
眼下では三年間を終えた生徒たちが名残を惜しむように校庭を埋めていた。
今日は晴れての卒業式。
けれど式が終了した今、教室で最後の別れを交わした生徒達に銀時はもうかける言葉を持たなくて。
流れる人波を、ただ校舎の屋上から眺めていた。
一年間を共にした教え子に、愛情は勿論持っていた。
あったけれど。
それは過去形にしかならないものだ。
彼らは行く者で、銀時は残る者。
感傷に浸ってみても新しい年がくればまた次の生徒がやってくる。
いつまでもその感情に留まっているわけにはいかないのが現実だ。
薄情といわれればそれまでだが、正直分けてやる程の情はない。
さぁっと風が吹いて、銜えたままの煙草の先から灰を散らす。
春まだ浅い三月の風は肌に少し冷たかった。
本来校舎の屋上は立ち入り禁止の為施錠されており、要領よく鍵をせしめた銀時以外に立ち入る者はいない。
唯一の使用者がフェンスに寄りかかっている状況で不意に扉の開閉音が響いた。
錆の浮いた蝶番の、金属の軋む鈍い音。
銀時が振り向くと生徒が一人歩いてくるのが目に入る。
証書の入った筒と胸の赤い花は卒業生の証。
見覚えのあるその容姿は今日の午前中まで銀時の受け持ちだった生徒だ。
「志村じゃん。どした?」
元生徒の名前は志村新八。
一年間担当した中で取り立てて目立つ生徒ではなかった、と思う。
担任だから知っているだけで、受け持ちでなかったら恐らく彼が隣のクラスだったとしても存在を知ることはなかっただろう、と確信できるほどに存在の認識は薄かった。
癖のない真っ直ぐな黒髪と洒落っ気のない眼鏡。
幼めの容貌は辛うじて高校生で通るだろうが、残念ながら三年生というには少し無理がある。
証書の筒を持っていなかったら胸の花はまるで新入生のようで、三月よりも寧ろ四月の方が似合いそうだ。
銀時の記憶に留まる事無く一年を過ごしてしまえる可もなく不可もない平凡な生徒。
容易く他に埋没してしまうような。
毎朝取る出席の、名簿上の名前の方が記憶には鮮明かもしれない。
「まだ帰んねーの?」
銀時に向かって歩いてきた新八は一メートル程手前で歩を止める。
少し視線を落とすくらいの顔の位置。
その小ささを、銀時は今知った
短くなった吸殻を携帯灰皿に落とし込みながら、そういえば個人的な会話をしたことは一度もなかったなとふと思う。
その証拠に声を、思い出せない。
「もしかして、白衣のボタンでも欲しかった?」
肺に残った煙を吐き出して、何も言わない新八を冗談交じりにからかってみる。
女子生徒にもぎ取られたそれは既に一つも残ってはいなかったけれど。
気のせいか、新八の表情が泣きだしそうに揺れた気がした。
胸に感じた軽い痛みは罪悪感だろうか。
銀時に気付かれた事を気にしたのか、誤魔化すように新八が笑顔を作った。
見上げてくる真っ直ぐな視線。
銀時は初めてその目を見た気がした。
「坂田先生」
新八は、こんな声をしていたのだと。
一年間の学校生活を思い返しても、それすら記憶にない事に多少愕然とする。
「今日で、最後だから……迷惑かもしれないですけど、言わせてください」
証書の筒を握る指が力の加減で白くなる。
それは緊張の表れなのだろう。
少し、震えている気がした。
「僕、ずっと……先生の事が好きでした」
齎されたのは突然の告白。
聞き間違いでもなんでもなく、確かにその声は銀時を「好き」だと言った。
目の前の新八は詰襟を着ている、間違えようのない男子生徒だ。
それなのに。
告白を認識した瞬間に銀時の心中を占めた感情は嫌悪ではなく純粋な驚き。
新八の淡々とした声の所為なのか、不思議なくらいそれは銀時の耳に自然に流れ込んだ。
瞳が遠いから、現実味がないのかもしれなかった。
「三年間ずっと、先生の事が好きでした」
一年生の時の体育祭で足をくじいた新八を、たまたま傍にいた銀時が背負って保健室まで連れて行った。
それがきっかけだったのだと聞かされたが銀時は覚えていない。
「温かい背中だなぁって思って。そんなこと思う自分はおかしいんじゃないかって、何度も思ったけど……それ以来気が付くと見つける度に目が先生を追っちゃって……」
風が新八の黒髪を揺らす。
柔らかそうな髪だと思った。
それも、今初めて知った。
「好きになった瞬間に終わっちゃったんですけど……」
おかしそうに笑う。
「でも先生の事見ていられるだけで良かったんです」
無意識になのか筒の蓋を回すように弄る手に銀時は視線を向けた。
性別をあまり感じさせない、優しい指だと思った。
「でも……」
新八の視線が脇に垂らした銀時の左手に落ちる。
「その指輪に気付いた時はちょっとショックでした。望みが無い事わかってるはずなのに、先生が誰かのものになっちゃったんだと思ったら凄く悲しくて……恥ずかしい話ですけど一晩中涙が止まらなくて。次の日は目が腫れちゃったから休んだんですよ?」
楽しかった思い出を話すように新八は笑う。
銀時の事などもうなんとも思ってないように。
まるで全てを無かった事にするように。
その態度に銀時は悟る。
新八が終わらせようとしている事を。
新八は静かに、銀時の言葉を待っている。
その想いに止めを刺されるのを待っている。
けれど。
自分の中のどこを捜してみても、それに当たる感情がない事に銀時は気付いていた。
「この花、先生が付けてくれたでしょう?」
制服の胸元を飾る赤い花。
「凄く小さな事だけど、幸せな気持ちになれて。やっぱり先生の事好きなんだって思って……僕、女の子みたいかな」
新八は笑うけれど。
きっとそれは誰にも言えず、ずっと一人で抱えてきた想いなのだろう。
何も気付かない間抜けな銀時を、それでも新八は一秒ごとに好きになって。
今、悲しいまでの覚悟で目の前にいる。
「ずっと見てるだけだった最後の日に……僕の勝手な思い込みですけど、先生にプレゼント貰えたみたいで……嬉しかったんです」
この学校の妙な習わしで、卒業生の胸の花は担任が自ら付けてやることになっている。
今朝、一人一人の制服の胸に銀時もその手で花を飾った。
在校生手作りの紙の造花を胸ポケットに挿すだけの簡単な作業だったけれど。
新八の手が胸元の花に触れようと伸ばされる。
その瞬間強い風が吹いて、軽く挿してあっただけの花をポケットからふわりと巻き上げた。
下の校庭から風に驚く女生徒達の軽い悲鳴が沸きあがり、ぽとりと落ちた花が新八の足元に転がる。
暫くそれをじっと見ていたけれど、新八は拾おうとはしなかった。
自嘲気味に笑って銀時を見る。
風に乱された髪を手で押さえながら。
「……何か、僕って最後まで駄目ですね」
呟くみたいにポツリと零した。
冷たい石の上に転がる赤。
それは確かに今朝、銀時の手で飾った物だ。
けれど新八の胸に挿した瞬間を思い出せない。
「志村……」
手を伸ばしても届かない距離がもどかしくて、銀時は近付くための一歩を踏み出そうとした。
けれどそれは。
「先生」
真っ直ぐに銀時を見つめる、柔らかだけれど強い視線にやんわりと止められた。
「もう……先生の体温は知りたくないです」
三年前背負ったはずの、新八の体温を覚えていない自分に銀時は苛立った。
自分の間抜けさに奥歯をギリリと噛み締める。
「僕、先生のこと忘れます……忘れなきゃ、いけないですよね」
寂しい笑顔で拒絶されて、銀時はその場を動けない。
「さよなら、先生……ありがとう、ございました」
小さく笑って去っていく、少しずつ遠くなる背中。
銀時は追うこともできずに立ち尽くす。
風が花を転がして、新八の去った場所から銀時の元へとそれを運ぶ。
コロコロと転がる赤い塊がつま先に当たった瞬間。
銀時は駆け出した。
心に突き動かされるままに。
あんな一方的な告白をされて、このままで終われるわけがなかった。
同じ教室にいた間ですら気付かせなかったくせに、最後の最後でこんなに鮮やかに銀時の目に飛び込んで。
詐欺だ、反則だと口の中で繰り返す。
嫌悪も偏見も其処には無く。
ただ鮮やかさだけが脳裏に焼きついた。
一年間担任でいて、自分は何を見ていたのだろうかと後悔ばかりが押し寄せる。
見えた制服の背中に給水塔の陰で追いついた時、身体は勝手に動いていた。
捕まえた腕を引き寄せて背中から抱きこめば、身体の細さと顎にあたる髪の柔らかさに心臓がトクンと鳴る。
瞬間、志村新八の存在は銀時の中で確かなものになる。
抱き締めても新八は暴れたりはしなかった。
ただ身体を硬くして小さく震えている。
それはとても静かな拒絶。
「先生の体温は知りたくないって、言ったじゃないですか……なんで、こんなこと……」
「……おまえ、ずりぃよ」
鼻先を目の前にある髪に埋める。
銀時が今抱き締めているのは詰襟の学生服を着た男子生徒で、細いとはいえ女とは違う。
けれど、この身体が腕の中に在ることはとても自然で気持ちが落ち着く。
「離して、下さい……も、苦しいの、やなんです……」
カラン、と音がして。
新八の手を離れた証書の筒がコンクリートの上を転がった。
銀時を想い続けた新八の三年間が、あんな紙切れ一枚で終わろうとしている。
離すわけにはいかなかった。
今離したら二人を繋ぐものはもう何もない。
「ごめんな、とかいうのはなんか違う気もすんだけど。でも、気付いてやれなくて悪かった」
何も見ていなかった自分自身の間抜けさもあるけれど。
きっと新八自身、銀時に気付かれないようずっと息を殺すように過ごして来たのだろうと思う。
三年間ある学生生活で。
誰が玉砕覚悟で同性に告白できるだろうか。
誰が教師に好きだと言えるだろうか。
新八を臆病だと責める事はできないし、そんな資格が銀時にあるわけもなかった。
それに全てはもうどうでもいい事だ。
今度は自分の番なのだから。
ずっと気付かされなくて、けれど気付いてしまえばこんなにも簡単で。
まるで初めから決まっていた事のように新八に魅かれ始める自分がここにいる。
黒い瞳が意思を込めて輝けば、もう目を離す事などできはしなかった。
「先生……」
「やだね」
新八の手が、離して欲しいと銀時の腕に掛かるけれど受け入れてはやらない。
想い続けてくれた三年間に到底敵う筈もないけれど、去ろうとする体温を離したくないと思った時点でもう銀時の答えは出ている。
銀時にとってはこれがスタートだ。
「お前の事、離したくねぇもん」
二人の体温が一つに溶けて、気持ちいいほどに肌に馴染む。
首筋に触れてみたかったのに詰襟のカラーが邪魔をするから。
代わりに柔らかそうな耳たぶを唇で挟んだ。
閉じ込めた身体の震えが銀時の背筋をゾクリとさせた。
「もう生徒じゃねぇから、口説いてもいいだろ?」
最初からきちんとやり直したかった。
好きだと伝えて、きちんとお互いに向き合って。
その気持ちを受けとめてやりたかった。
新八が気持ちをぶつけてくれて、銀時もはっきりと自覚をした今。
当然受け入れてもらえるものだと思っていたそれは銀時の予想を裏切って拒絶された。
横に振られた新八の頭に動揺を隠せない。
「……なんで?」
新八の手が、右肩を包むように掴んだ銀時の左手に触れる。
指先が遠慮がちに薬指の銀色をなぞった。
「先生には、大事な人がいるじゃないですか」
銀時の左手薬指。
そこには約二年ですっかり馴染んでしまった銀色の輪が嵌っていた。
左手薬指は愛を誓う指だという。
それを指摘する新八の意見は人として真っ当だ。
けれどそれが只の誤解だとわかっている銀時自身は安堵の息を漏らす。
拒む理由がそれであるのなら説得をするのは簡単だ。
この指輪の相手など何処にもいない事を教えてやればいい。
今はもういないなどと言う悲恋的な逸話があるわけではなく、最初から存在していないのだ。
「これな、実は意味ねぇのよ」
銀時は嵌めてからおよそ二年ぶりに指輪を抜いた。
その場凌ぎに道端で買った安物の指輪。
鈍い輝きに変わったそれを、捕まえた新八の左手薬指に嵌めてやる。
銀時に丁度良かった銀色の輪は、細い指には少し大きかった。
「え……?」
「や、まぁ意味はあるっちゃあるんだけども」
後ろから出した手を肘掛に、新八の左手を載せる。
手の平を合わせて受け止めて、指を絡めるように握りこむと指先が指輪に触れた。
くるくると回る指輪を人差し指と親指で遊ぶ。
「自分で言うのもなんだけど、俺って結構モテちゃって」
「……知ってます」
「かっこよく言ってみると偽装工作てぇかね、んな様なもんでさ」
言い寄る女子生徒の大半はノリや冗談だ。
それでも中には本気で迫ってくる輩もたまにいる。
銀時だとて健全な男子であるし、好意を持たれて悪い気はしない。
好きだと言われれば嬉しいし、どうぞ食べてと据え膳を用意されれば頂くだけの甲斐性もある。
それを否定する気はないけれど、職場での色恋沙汰はできることなら避けたいと思っていた。
モラルがどうのなどという立派な意見ではなく、教え子とどうこうというのが只面倒臭いという理由からではあるが。
自慢ではないが口から生まれたという自負があるから適当にあしらうのは容易い。
だがそれも日々繰り返されれば嫌気も差す。
そこで考えたのが既婚者を装うという策。
これが単純ではあるが意外にも効果覿面だったのだ。
最初こそ相手は何処の誰だと騒がれもしたが、噂が浸透してしまえば興味が失せるのも早かった。
教師への恋愛感情などもともと十代特有の一時の熱病のようなもの。
脈がないとわかれば彼らはすぐに次の対象に狙いを定める。
現金なものだと人の心の移ろいを目の当たりにした事を思い出し、思わず苦笑を漏らした。
「だからな、俺は結婚なんてしてねぇの」
抱く腕に力を込める。
噂を信じたのだとしても、新八はずっと銀時を想い続けてくれた。
その事実に弛む頬を止められない。
勇気を振り絞ってくれた新八に感謝したかった。
手を解いて新八の身体を自分へと裏返す。
立場上予防線は張るけれど、基本「来る者拒まず去る者追わず」が信条の自分が、こんな風に繋ぎ止めるための言い訳などした事はない。
けれど新八を逃がさないためならば形振り構うつもりはなかった。
新八が首を縦に振ってくれるのならどんな事でもできる気がする。
とにかく誤解は解けたはずと。
「な、口説いてもいいか?」
期待を込め、揚々と顔を覗き込んだ。
けれど。
新八の首はまた横に動く。
「な、んでだよ……」
銀時は目の前にある身体に、覆い被さるように突っ伏した。
逃げないのをいい事に腰の辺りで指を組んで拘束してしまう。
誤解も解け、矢印はお互いを向いている筈のこの状況でそれが交わらない事に軽く苛立つ。
好きだと言ってくれる好意の上に胡坐をかいてきたツケなのだろうかと、自分の過去を省みた。
腕の中の温もりは以前から知っているように馴染むのに、その気持ちだけが掴めない。
「なぁ、新八。どうしたらうんって言ってくれんの?」
腰をぎゅっと引き寄せる。
「俺、もうお前の事好きかもしんねぇって自覚しちまったんだけど」
意識してしまえば最後、知らなかった頃には戻れない。
こうなった今ではどうしてずっと気付かずにいられたのか、それが不思議でならないほどだ。
「もしかしてこれって三年分の仕返しだったり?」
「ちがっ……」
向ける気持ちを返されない。
それは新八自身が三年間堪えてきたものだ。
銀時が非を負うことでは無いとはいえ、ささやかでも意趣返しをしたくなる気持ちは人として当然かもしれなかった。
けれど新八はそういう類の人種ではないらしく、即座に否定が返ってくる。
「違います……」
遠慮がちな指が銀時の腕に添えられる。
銀時が顔を上げても新八のそれは伏せられたまま。
胸元辺りに額が当たった。
「……るから」
「ん?」
「先生に、口説かれたり……したら」
伏せた口元からくぐもった声が聞こえて。
「……僕きっと、おかしくなるから……」
意趣返しでもなんでもないただ可愛いばかりの内容に、おかしくなりそうなのは銀時の方だった。
「志村……つか新八っ」
「はっ……は、い」
両肩を掴んで身体を離しても何故か視線が合わない。
さっきまで、あれほどに自分を真っ直ぐに見詰めてくれた黒い瞳は落ち着かなげに銀時の視線を擦り抜ける。
新八の頬も耳も、可哀想なくらいに赤かった。
「ちょっと待てよ、お前……」
勘弁しろと肩を押す。
給水塔の壁に寄せ、腕で挟んで閉じ込めた。
「今まで誰かにおかしな事とかされてねぇだろな」
「え……?」
銀時の質問を理解できず新八が聞き返す。
「だから、今までに」
わかるように銀時は噛み砕いた。
「変な奴に可愛いとか好きとか言われたり付き合おうって言われたりやたらと身体中ベタベタされたりケツ触られたりとかそういうのはなかったかって聞いてんのっ」
一息に言い切って急いで酸素を取り込んだ。
上下する肩の必死さに新八がようやく視線を合わせてくれた。
「だ、大丈夫ですか……?」
「……へー、き」
もう一度大きく深呼吸をする。
「で、どうなん?」
正直言って銀時は衝撃を受けているのだ。
こんなに可愛い存在を目の前にして、どうして一年も素通りしていられたのかと。
自分の知らない間に誰かのものだった事があるかもしれないなど、考えるだけで気が気ではない。
「そんなの、ないです」
「マジで?」
「はい」
「嘘付いてねぇ?」
「どうして嘘なんか……」
「だってお前、めちゃめちゃ可愛いよ?」
腕を曲げて距離を詰めると再び視線が逃げた。
「先生が、おかしいんじゃないですか?……」
困ったように視線を泳がせる。
「正直な感想」
横向いた米神に唇を寄せると眼鏡の蔓が邪魔をする。
「あ……」
それを両手で取り去って、花の代わりに制服の胸ポケットに押し込んだ。
「新八……」
花を挿した時は自分の中に存在していなかったのに。
今はもうそれが考えられないほどに、新八は銀時の心の中を占めている。
見上げてくる、眼鏡のない表情はどこか無防備で。
「キスとか、していい?」
吐息が触れるほどに唇を寄せると新八の瞼がぎゅっと閉じられる。
唇が小さく震えていた。
一度そっと押し当ててから髪を撫でてやる。
「もしかして、したことねぇの?」
銀時の手に慰められて新八がそろそろと瞼を開く。
濡れた睫毛を数度瞬かせコクコクと頷いた。
手の平を頬に当て、親指の腹で目尻を拭う。
「お前、よく今まで無事だったよな……」
相手が真っ新である事の喜びを、自分が感じる日が来るとは思わなかった。
初めて触れるのが自分である事に銀時は喜びを隠し切れない。
怖がらせたくなくて、胸元で固まっていた新八の腕を掴んで導いた。
「こっから回して、ぎゅって」
新八が腕を回すと二人の身体が密着する。
「なんか、恥ずかしいです……」
「結構な」
額に鼻先を寄せると新八の息が首筋を擽った。
それは温かく、優しい。
色恋には冷めた方だと思っていた。
甘さを求めるなど自分にはあり得ないと。
それがどうだ。
蓋を開ければこの体たらく。
新八となら、何処までも甘く溶けたくなる。
銀時は実感する。
口で何を言おうとも。
人には陥落する瞬間があるのだと。
「お前……俺の事一瞬で落としたよな」
「え……?」
きょとんとする新八の額から、鼻筋を通って口元へ。
「あ……」
唇の合わせを重ねるように、ゆっくりとしたキスを繰り返す。
濡れた粘膜の音が飽きる事無く耳を打ち、その度に新八の吐息が震えた。
繰り返すうち少しずつ呼吸を落ち着かせていく新八の、襟足を掬うように手を当てる。
「ん……」
唇を、何度目かで留め置いて。
「いれて、いい?」
経験は無くとも、何をと聞き返すほど疎くはないだろう。
唇に触れたまま問いかけると新八は瞼を震わせた。
それ以外に応えはない。
銀時は確かめるようにゆっくりと触れてみた。
舌の先で薄い皮膚を撫で、甘く挟んだ膨らみをそっと吸う。
逃げない事を了承と受け取って。
綻んだ合わせ目からそっと舌を忍ばせた。
一瞬だけ新八の呼吸が緊張で揺れたけれど。
温かい口中は素直に銀時を迎え入れてくれた。
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