2009年に発行しましたコピー本「月の舟」です。
これは遊郭ものなので地雷な方の為にワンクッション置きますね。
新八に坂田以外の人間が指一本でも触れるのは嫌だという方はおやめになった方が賢明かもしれません。
一応日記小話の「非合法遊里」からの派生ネタ(内容は全く違いますが)ですのでそれに抵抗がなければ大丈夫かな……と。
でもこういうのは本当にご本人の気持ちの問題なので無責任な事は言えません。
ただ、私の銀新バカぶりを踏まえたうえで、その私の書くものなら、と思っていただけるのならありがたいです。
それではご興味のある方はずずずぃっと下へどうぞ。


























































「半月振りだなんて、全くお見限りもいいとこだよ」
恨みがましい女の声に心の中で耳を塞いだ銀時はふいと背を向けた。
気だるげに木戸に凭れた女の細い指先が名残惜しげに着流しの袖を引く。
「ねぇ、今度はいつきてくれるのさ」
誘うような甘い声。
けれど胸には響かない。
「さあな、そいつは懐に聞いてみねぇとわからねぇよ」
「あんたならあたしの奢りで安くしたげるからさぁ」
女は甘えるように銀時に擦り寄る、けれど。
「ありがてぇけど……」
首に手を当てこきりと鳴らし、無常にも後ろ手にひらりと別れを投げた。
「気ぃ向いたらまた来るわ」
素っ気のない銀時の態度に女は軽い癇癪を起こす。
「なんだい、銀さんのいけずっ」
投げつけるような女の声が向けた背中にぶつかった。
商売なのだと割り切ってはいても、情が移るのは女の性なのか。
己を歯牙にもかけない男の態度に遣り切れなさを抑えられないのだろう。
睨むような視線が背に刺さるけれど、銀時は振り返ることはせずにそのまま店を後にした。
残る女と去る男。
並ぶ店の軒下が数多の別れで飾られる。
自分には縁のないそれを横目に流し、銀時は白々と明け始めた空を見上げた。
吐く息が白くなるのはまだ幾分先だが朝方はそろそろ肌寒い。
やれやれと一息吐くと空きっ腹がぐうと鳴った。




お江戸、吉原、色の町。
一般的には欲望渦巻く夜の町だと思われがちなこの場所だが、昼間は眠っているかといえばそうではない。
確かに一夜の快楽を求める客が集い賑わうのは夜ではあるが町は昼間もきちんと起きている。
朝帰りの客を送り出した遊女達がその後の二度寝を決め込む頃に下働きが動き出す。
掃除、洗濯、床の手入れ。
そうしてまた次の夜に向けて環境を整えるのだ。
朝と夜。
二つの顔を持つこの町は、まさしく眠ることのない不夜城といえるのかもしれない。
店の格はビンからキリまで。
銀時は懐の都合で足繁くとまではいかないが、通りを歩けば今日こそはうちにと袖を引かれる程度には顔馴染みになっている。
一度買った女を替える事は良しとされないのが吉原の掟、などと昔は厳しい部分もあったらしいが今ではそこまでの縛りはなく、気軽に色々な店を渡り歩く輩の方が増えている。
銀時自身は馴染みであれば面倒も少ないのでできれば替える事をしたくない性質なのだが、相手がそれを許してくれない。
同じ逢瀬も三度が限界のようだった。
執着される事はあまり好きではない。
そろそろ店の替え時かもしれなかった。




「おじさーん」
日が昇ってくると少しずつ茶屋が店を開け始める。
帰る前に、と連れ立って朝餉を共に取る事もよくある習慣ではあるが銀時はそれもしたことがない。
今日も一人適当な店で済まそうと暖簾を吟味しているとどこからか声が降ってきた。
どうやら建物の上かららしい。
「すみません、おじさん」
色町というこの場には似つかわしくない、とても健全な声色だ。
一夜を過ごした帰り客は銀時以外にも勿論いる。
それこそ一目で銀時よりも年配だと分かる者も含めて取り取りだ。
けれども声は明らかに銀時を目掛けて呼びかけているような気がする。
気はするが、それが自分を指す形容詞だとは絶対に認めたくない。
袖を抜いた片腕を懐に突っ込んで、銀時は我関せずを決め込んだままだらだらと歩を進めることにした。
断じてそれは自分ではない、と。
「ねぇ、おじさんってば、無視しないで下さいよ、おじさーん」
取り合わない銀時に声は少し焦りを帯びる。
無視という行動に対する相手のその反応に、やはりあれは自分に対する形容なのかと少し気が滅入る。
仕方無しに歩みを止めれば建物の二階から少年らしい容姿が身を乗り出していた。
手摺越し、視線が合うと少年は銀時が意識を向けた事に表情を和らげた。
「良かった、おじさ……あぁっっっ」
「ぶっ」
真下に来て。
応える為ではなく文句の一つも言ってやろうと思っただけだったのだけれど。
少年が慌てた声を出した直後、僅かな衝撃を伴って銀時の視界は暗闇に包まれた。
「ご、ごめんなさいっ、おじさん大丈夫ですかっ?」
仰向いた顔を覆った何かは銀時の呼吸を塞いだまま動かない。
辛うじて生き物の類ではない事だけはわかる。
それはゆっくりと首を起こすとズルリとずれて、そのまま足元に落下した。
見下ろした先には群青に白の大輪をあしらった四角い座布団。
暫くそれを眺め下ろし、仕舞ったままだった腕を抜いてすっと身を屈めた。
拾い上げたそれをどうしたものかと考えながら何となく付いた汚れを手で打ち掃う。
「あの……大丈夫ですか?」
声が、おずおずといった風情で落ちてきた。
仰ぎ見た二階の手摺、黒髪眼鏡の冴えない顔が心配そうに銀時を見詰めている。
よく見れば格子状の内側には手にある座布団と揃いの物が数枚立てかけられていた。
それで事の顛末は何となく知れた。
「ごめんなさい……あの僕、落しちゃった布団叩きを拾ってもらおうと思って……」
恐る恐るといった様子に再度視線を落せば成る程、確かに棒が落ちている。
銀時はついでにそれも拾い上げ、眼鏡の奥の黒い瞳を真っ直ぐに捉えた。
「おい坊主」
びくりと小さく肩が揺れ、手摺を掴む指にぎゅっと力が篭る。
「おじさんってなぁ俺の事か?」






すぐに降りるから待っていて欲しいという少年の言葉を聞き入れて、銀時は軒下に身を寄せた。
客を送り出してしまった店の木戸は既にぴたりと閉じている。
手持ち無沙汰が退屈で、己の顔面に直撃した群青の四角を繁々と眺めてみた。
布地は幾分上等な気がする。
ここに入った事はないが少しは値の張る店だろうかと、閉じた入り口をちらりと振り返った。
程なくガタン、バタンと音がして。
隣接する建物との隙間から少年が走り出ててきた。
上で銀時を見下ろしていた少年だ。
紺の作務衣、踝の覗いた素足に草履の出で立ちで、裏口から急いで回ってきたらしいつま先が角に置いてあったたらいを蹴飛ばした。
つんのめり気味に駆け寄ってきた身体はぶつかりそうな勢いで前に来ると危なっかしくよろけて止まった。
ふわりと空気が舞い上がる。
目の前の少年は、銀時の肩に届くか届かないかの身長だ。
薄い肩が軽く上下していた。
「あのっ、あの本当にごめんなさいっ、うっかり手が滑って落としてしまって……怪我とかしてないですか?」
ぺこリぺこりと頭を下げる度、黒い髪がさらさら揺れて。
謝罪よりもそちらに気を取られた銀時の無反応に少年が面を上げた。
小さな顔が眼鏡越しに黒い瞳を見開いて、微かに高潮した頬で心底心配そうに銀時を見ている。
謝って済むなら警察は要らない。
常であれば迷う事無くそう言うだろう。
それどころか待つなどという悠長な事はせず、場合によっては相手を引き摺り下ろす勢いで詰め寄る事も躊躇はしない。
何れにしろ寛大な性質ではない己を自覚している。
けれど。
少年の必死の様を見ていると、黙って水に流してやる事も吝かではないような心持になってしまう。
「心配すんな、なんともねぇよ」
更に無意識に口を吐いて出た言葉に自分で驚いた。
「本当ですか?」
袖に縋りそうな勢いで身を寄せた少年の、ぱっと広がる笑顔に心臓が小さく跳ねた……のは気の所為だろうか。
「ま、豆腐の角よりは硬かったけどな」
冗談交じりに告げ、手にしたものを手渡しながら銀時は。
「それよりもおっさん呼ばわりされた方に激しく傷付いたね、俺は」
かなり痛かったのだと、軽い調子で訴える。
「あ……」
間近で見た銀時がそう呼ぶにはまだ早い容姿をしていると、少年も既に気付いていた。
「ごめんなさい……髪しか見てなかったからつい……」
小さな頭がしゅんと俯く。
それを見た瞬間胸に湧いたのは罪悪感で。
髪だけ見れば勘違いしてしまうのも無理からぬ事なのだと自分の発言を後悔した。
「悪ぃ……まあこんな頭してっからこういうの初めてじゃねぇし。顔見ておっさん呼ばわりされたら流石にへこむけど……悪気は無かったってわかるしさ」
何とか元気付けたくて慎重に言葉を選んだ。
ぽんぽんと俯いた後頭を叩いてやれば、顔が上がって安心の笑みが刻まれる。
「そんな、僕の方こそ御免なさい……ありがとうございます」
少年は気持ちが温かくなるような表情をする。
慣れない事をした照れ臭さを誤魔化すように銀時は黒い髪を思い切りかき混ぜた。
手の平の下で柔らかく滑る髪の感触すら気恥ずかしいような。
「わわ、ちょ、やめて下さいよ」
それは目の前の少年の初々しさが齎すもののような気がした。
こんな場所には似つかわしくない。
一体どういう少年なのだろうか。
自然と心に湧いた想い。
それは断ち切り難いほどの誘惑で銀時を引き止めるけれど。
公私共に一癖も二癖もある人間とばかり付き合ってきた代償が今ここで露呈する。
「ははは、そんじゃな。もう人の上に座布団なんか落すんじゃねぇぞ」
そう言って踵を返すのが関の山だった。
この先を、どう取り繕えばいいのか分からない。
後ろ髪を引かれつつ、立ち去り難くも足を進めた。
その時。
まるで救いのように銀時の背に声がかかる。
「待って下さいっ」
慌てたような声音は間違えようもなく少年のもの。
まるで銀時の気持ちに呼応したように望みを叶えようとする。
例えそれが偶然の成り行きであったとしても答えない選択はどこにもなかった。
「どうした?」
弛む頬を気力で固め、ややわざとらしいかと思いつつも止めた足をくるりと返す。
銀時の顔を見て、少年は安堵したように息を一つ付いた。
「あの、お礼というかお詫びというか……大した事はできないですけど、せめて何かさせてくれませんか?」
二つに折った座布団を両腕に抱えながらの訴えはある種急所を突かれる可愛さだ。
冴えない眼鏡と最初に思った。
それは今も変わらない。
それでもどうしてか少年は内側からキラキラと輝くような何かを持っていて、銀時を惹きつけてやまないのだ。
「そりゃ、したいってんなら断る理由はなんもねぇけど」
「本当ですかっ?」
途端に広がる満面の笑み。
真っ直ぐに向けられる屈託のないそれに、全部こいつの笑顔が悪い、と理不尽にも責任転嫁をする銀時だった。







少年の名は新八といった。
今年で十六。
十からこの店で下働きをしているらしい。
六つで二親を亡くし、たった一人の姉と共に身寄りのない子を集めた寺で暮らしていた。
やがて別々の里親に引き取られた二人は離ればなれになってしまう。
不幸な事は重なるもので新八はその里親もまた病で亡くし、十で再び路頭に迷う事となったという。
子供であった新八は育った寺へ戻ることしか思いつかず、うろ覚えの山道を一人歩いていたところを人買いに攫われ今日に至るということらしい。
「最初はどうして僕達ばかりって思いました……けど、ここに来て、皆が一生懸命生活してるのを見てるうちに、僕も頑張らなくちゃって思えるようになったんです。姉上もきっと倖せに暮らしてる、生きてれば会える日だって来るかもしれないって」
だから信じようと思ったのだと、俵型の握り飯を皿に載せて差し出しながら新八は小さく微笑んだ。
何か礼をしたいと引き止められて、けれどできることなど限られ過ぎていて。
結局食事を目的としていた銀時に賄いではあるがささやかな食事を出すということに落ち着き未だ人気のない台所に通された。
「な、なんかかえって申し訳ないような気がしてきました……」
自分の作った握り飯と漬物、お茶という質素すぎる献立を見て新八が恐縮したように身を縮ませる。
「んなことねぇって」
正座をした新八の傍で軽く脚を組んだ銀時は一つを手に取り口に運ぶ。
炊き立ての白飯と巻かれた海苔の磯の香り。
適度に塗された塩加減が絶妙だった。
添えられた漬物を齧りつつ茶で流し込む。
簡素ではあるが全ての調和が取れていて、腹に入ると内側からほこりと温かくなってくる。
申し訳無さそうな顔をさせるのは忍びなくとも世辞を言える口はない。
だから心から思った事をそのまま伝える。
「十分に美味いよ」
「よかった」
そう告げて二つ目を手に取ると照れ臭そうな笑顔が返ってきた。
「握り飯なんて久しぶりに食った」
「そうなんですか?」
「作ってくれるような奴がいねぇからな……って、こんなとこ来てる時点で察しろっつーの」
「そうかなぁ、お兄さんもてそうなのに」
「あ?んなことねぇねぇ」
ため息混じりに否定をすると新八は笑いながら茶を注ぎ足してくれた。
「遠目で見たら間違えちゃいましたけど、よく見たらお兄さんの髪って凄く綺麗な銀色なんですね」
「そうか?」
「はい、光が似合いそうです」
感動したように新八が銀時を見詰める。
銀時にしてみれば、新八の黒髪こそ指を絡めたい艶やかさでそこにあると思うのに。
ごく自然にそう感じて、そう感じた事に僅かに遅れてはっとした。
相手は十六歳の男子だと思い出す。
「あ、ちょっと待っててくださいね」
銀時の髪に魅入っていた新八がふと思い立ったように腰を上げる。
一度奥に消え、戻ってきた時には水を絞った手拭を手にしていた。
「あの、唇に海苔が付いてるんで拭いてもいいですか?」
「え?あ……おぅ、頼むわ」
自分でやると突っぱねる事は思いも付かずされるがままに受け入れた。
気恥ずかしさに勝った感情の、正体を探っていいものかどうか。
戸惑いは隠せない。
けれど頬に添えられた指先の、カサリと荒れた感触は少しも不快ではなく。
「取れました」
「ああ、ありがとな」
「いえ……あの、二個で足りました?」
小首を傾げる小さな頭ににぽんと軽く手を載せた。
「ああ、美味かった、ご馳走さん」
気持ちを込めてそれだけ言えば十分に伝わったようだった。
「あの……」
「ん?」
「もしお兄さんがまたここに来る事があったら、僕お昼に休憩が貰えるんで良かったら店に寄って下さいね。塩むすびでよかったらまたご馳走します」
拙い誘いに心が躍る。
「僕あんまり知り合いとかいなくて……お兄さんと話すの楽しいし」
「そりゃありがとよ」
思いがけず新八の方から誘われて心が湧き立つ。
三度抱いた相手に湧かない情が、指先が触れただけの相手にこうも簡単に湧く不思議。
全く人の心とは判らない。
「でもよ、俺はありがてぇけどお前は店の奴に怒られねぇの?」
一見したところ下働きだろう。
余所の人間を引き入れて好き勝手してもいい権限などあるようには到底見えない。
「僕、よく野良猫とかに餌やってて……」
「俺は野良猫扱いなわけ?」
「あ、えと、ごめんなさい……そうじゃなくて、自分の食べる分で賄うなら大丈夫って事なんですけど」
「お前の食い扶ち減っちまうじゃん」
「おかずは余分がないんですけど、ご飯とお漬物は自由にお替りできるんですよ」
だから塩むすびしかご馳走できないんですけど、と新八は綻ぶように微笑んだ。
「お兄さんは……」
「まだ名前、教えてなかったな」
一夜の幻を買うこの町で、本当の名は意味を持たない。
わざわざ偽名を使うほど凝りはしないが、通り名以外を自ら進んで教えた事はまだ一度もなかった。
けれど新八には知っていて欲しいと思う。
「お兄さんの?」
「ああ、坂田銀時ってのが俺の名前。お兄さんとかすげぇむずむずすっからさ、銀さんって呼んでくんね?」
「あ……はい、銀さん、ですね」
「うん」
新八の声が呼ぶ自分の名はどこにも淀みがなくて、清々しく感じられた。
「銀さん、は何をしてる人なんですか?」
「万事屋だよ、万事屋銀ちゃん」
「よろずや……ってなんですか?」
「まあ頼まれ事を片付ける便利屋みてぇな感じかねえ」
「名前が社名って事は、もしかして社長さんなんですか?」
尊敬の眼差しが。
「まあ……社員総数一名、だけどな」
輝きを失うのはすぐだった。
「それって駄目……じゃないですか?」
「まあ、な」
ため息と共に頭をかけばそれを見た新八がどこか楽しそうに笑う。
「でもなんか、万事屋さんって銀さんに似合ってますね」
「そうか?」
「なんでも屋さんなんですよね?自由気ままな雰囲気が、なんとなくぽいなぁって」
新八の唇が“自由”と綴るのを聞いて銀時はどきりとした。
微かに目を細め銀時を見上げる新八の眼差しに羨望の色はない。
例えるならそれは。
見上げた窓から広がる空に飛ぶ鳥の、去りゆく軌跡をただ追うような。
十からここにいる新八は自由を望んだ事があるのだろうか。
思うと僅か、胸に切なさが寄せた。
「困った事があったら何でも言えよ。お前なら特別に塩むすびで手ぇ打ってやっからさ」
「本当ですか?嬉しいな」
この町にはない、素直な笑顔。
もう溺れかけている。
けれど陥落する事に悔しさはない。
出会ったばかりの少年に湧く愛着を、もう無理に抑えようとは思わなかった。







「よぉ、新八居るか?」
「あら銀さん、いらっしゃい」
戸を開けつつ声をかけるとすっかり顔馴染みになった女が雑巾を手に近付いてきた。
「今日も只飯集りに来たのかい?たまには座敷にあがってもらわないとこっちは商売上がったりなんだけどねぇ」
「固てぇ事言うなって、そのうち出世払いで豪遊してやっからさ」
「どうだか、あんた口ばっかじゃないのさ」
確かに最近の銀時は身奇麗だった。
出会って暫くは吉原通いの寄り道のつもりだったこの場所が、いつの間にやら一番の楽しみになっていた。
そのうちに事の後で新八に会う事がだんだんと嫌になり、今ではここに来る事が吉原に足を運ぶ理由になっている。
「全く、新八もとんでもないもん餌付けしちまったもんだ」
「うっせ、んな事より新八は?」
銀時がここを尋ねるのはいつも大体同じ時間だ。
木戸を潜れば膝元に握り飯を支度した新八がにこやかに迎えてくれるのが常のはず。
だが今日は目の届く範囲には姿がない。
「新八は女将さんに呼ばれてちょいと外してるよ。握り飯なら、ほら」
頼まれていた、と女が皿をことりと置いた。
「新八が?」
際に腰を下ろし尋ねる。
「お生憎様、悪いけどあたしだよ。冷えちまうと不味くなるからいつもの時間に握ってやってくれってさ」
よく見れば載っているのは俵型ではなく綺麗な三角だ。
「それじゃ意味がないからあんたが握っておいてあげなって言ったんだけど、あの子きょとんとしちゃって……」
ねぇ?、と意味有り気な顔をされ、銀時は一瞬返答に詰まる。
下働きとはいえ流石は吉原の女だ。
「無理しなくてもいいさ。新八に頼まれたから作ったけども、いらなきゃあたしが食うから置いときなよ」
「や、いい……これ貰うわ」
折角の好意を無碍にする理由もない。
新八が作ったものよりはやはり味は落ちるなと失礼な事を内心思いはしたけれど、銀時はありがたくそれを口にした。
「やっぱり新八のじゃなきゃ美味くないだろ?」
「ぐっ」
ずばり言い当てられた事にぎくりとして軽く咽る。
女の手が笑いながら茶を差し出した。
「悪ぃ」
喉の奥の飯粒を慌てて茶で流し込む。
「ああ疲れた。あたしも一服させてもらおうかね」
女は自分の茶を煎れると頭の手拭を取りながら向かい側に腰を下ろした。
「けど、あんたも毎日飽きないよねぇ」
「うっせぇな、毎日は来てねぇだろ」
「二日と開けず顔出してりゃ似たようなもんだよ」
「……ほっとけよ」
ふっと笑って女が茶を啜った。
「いい子だろ、あの子」
確信のように同意を求められ、銀時は軽く視線を外す。
「まぁ、な」
言われずとも分かっているが、諸手をあげて頷く事は憚られる。
男特有の、くだらない矜持と言ってしまえばそれまでのもの。
憮然とした銀時に女の反応は心得たもので薄く笑うに留まる。
「あんたが来るようになってからあの子、昼時になると楽しそうに握り飯拵え始めるんだよねぇ。それ見てるとこっちまで嬉しくなっちまってさ」
節の目立つ荒れた指が労るように湯飲みを撫でた。
「六年もこんなとこにいるのにちっとも擦れなくて」
五十に届こうという女の手は、それ以上の年月を刻んで見える。
「外の方がずっと似合うと思うのに、あの子がここに居てくれてあたしらは救われてる、なんて思ってる……ホント、人間なんて身勝手なもんだ」
疲れた横顔がちらりとあがった。
「銀さんはあの子を連れ出したいと思わないのかい?」
「連れ出すって……」
「新八見てると十五で逝っちまった娘を思い出すんだよ。よく笑う、可愛い子だった」
性別は違えども、見ていれば浮かぶというその娘の姿を、銀時は容易に思い描けるような気がした。
「だからなのかねぇ、妙に親心が湧いちまって仕方ない」
大なり小なり、この町に身を置く人間にはそれぞれに事情がある。
新八ばかりが特別なわけではない。
ここに生きる人間ならば誰しもが承知をしている事だ。
恐らくは新八自身も心得ている。
だがそれでも、と思うのが情なのだろう。
「……戯言聞かせて悪かったね」
笑い飛ばして茶を飲み干し、女の指が乱れた解れ毛を軽く整えた。
言っても詮ないことだと判っていながらも言わずにはいられない心情が伝わってくるようだった。
「愚痴は婆ァの特権だ、俺でよきゃいつでも聞いてやるよ」
「……新八に考え直すように言っとこうかねぇ」
「それこそ余計な世話だっての」
渡された手拭で指先を拭く。
「まあ連れ出すなんてのは絵空事かもしれないけどさ」
立ち上がった女が裾を払う。
「これからもあの子に会いに来てやっとくれね」
急須の残りを注ぎ足し、空いた皿を手に取った女は仕事に戻っていった。
残された銀時は冷めかけた茶をゆっくりと啜る。
銀時もまた、ここに居る女達と同じなのかもしれない。
愛しいと思う気持ちに嘘はないが、その存在に癒される事を望んでいるのも本当だ。
自嘲する気持ちはあれど簡単に手放せるものでもなく、日々はただ過ぎていく。
この町で、新八と出会った。
出会った時、新八はもうここで生きていた。
逃げ出したいと思うことがあったのだとしても、恐らく新八はそれを表に出したりはしないのだろう。
ここではないどこかへと、自由を求める心を抱えていてもそれは決して誰にも見せず内へ内へと隠すのだろう。
短い付き合いではあるが銀時は新八の人となりをそう見ている。
それに、新八は頑張るのだと言っていた。
信じてここで頑張るのだと。
だから敢えて壊そうとは思わない。
新八がここに居るのなら、自分がここに会いにくる。
それでいいと思っている。
元気な新八に会えるのならそれでいい。
新八が笑っているのならそれで。
無性にあの笑顔に会いたくて。
暫く待ってみたけれど、その日はとうとう新八に会う事はできなかった。










あれから数日。
いつ来ても新八は不在で、やっと会う事ができる今日は実に十日振りだった。
小ぢんまりとした境内の、鳥居に凭れて新八を待つ。
今日は秋祭り。
町の小さな稲荷の社に僅かばかりの出店が並び、普段とは色の違う賑わいに湧く。
温かく灯った提灯の向こうに寄り添う男女が消えていく。
その背を幾つも見送りながら、銀時は早く来すぎた時をやり過ごす。
風が運ぶ祭囃子の微かな音が物悲しさを引き立てる。
辛気臭ささを振り払いたくて仰ぐように空を見た。
いつ会えるという当てもなく、時折店を訪ねていた銀時に新八からの言伝があったのは一昨日の事だ。
“秋祭りの日に一日お暇をいただけたのでよかったら一緒に行ってくれませんか?”
新八からの誘いに一も二もなく頷いた銀時は伝えてくれた女に承諾の旨を返した。
思い返せば待ち合わせて出かけるなど初心な初恋の頃にもした事が無い。
いい年をして何をしているのかと気恥ずかしさに思わず口元を手で覆う。
自分が今どんな顔をしているのかなど想像するのも恐ろしい。
中空の月は涼し気に、僅かに欠けた薄い円を冴え冴えと輝かせている。
いっそ憎らしいほどに。
「もうすぐ満月ですね」
「……っ」
横合いから突然かかった声に不覚にも肩が揺れた。
隠すように息を吐いて顔を下ろせば、待ち人来る。
「よぅ」
視線が合うと新八が笑う。
久しぶりの、変わらぬ笑顔。
「お待たせしてごめんなさい」
微笑む新八は薄灰の浴衣に紺の帯を締めていた。
布地全体に七宝柄が施されており四片を拾って濃く染め抜いた部分が散りばめられた花弁を思わせる。
「浴衣、珍しいな」
「これ、お店の皆が誕生日に仕立ててくれたんです。折角貰ったのに着る機会が中々なかったから、やっと着られて嬉しいです」
「ふーん……似合ってんな」
浮いた台詞など無縁だと思っていた自分の口からポロリと零れて思わず奥歯が疼く。
「ありがとうございます」
けれど、照れるわけでもなくただ素直に称賛を受け入れる笑顔を見れば自分の見栄が馬鹿らしくなる。
思えば出会った最初からそうだった。
「ん」
「え?」
「人混みだし、手ぇ繋いだ方がいいだろ」
手の平を差し出すと、新八は暫くきょとんとした後で慌てたように頷いた。
「あ……は、はい」
染まる頬を月明かりが照らす。
慌てたように新八が何度も手の平を浴衣で拭う仕草が可愛くて、銀時は思わず笑ってしまった。
「あの、お願いします」
伸ばされる手を受け取る。
「冷めて」
「ご、めんなさい」
そっと添えられた指先は冷たい。
「もしかしてすげえ緊張してる、とか?」
引こうとする手をぎゅっと掴む。
「そりゃ……だって、好きな人と一緒なの、初めてなんです……」
「今日は新八に誘われたんだけど?」
少しからかいを含めれば。
「頑張って、みました」
なんて密やかに笑うから、胸が詰まった。
温めてやりたくて、薄い手の平をもう一度しっかりと握り直す。
「行くか」
「はい」
素直についてくるそれを、そっと引いた。








「新八は食いたいもんねぇの?まだなんも買ってないだろ」
新八は入り口からずらりと立ち並ぶ露店を覗くばかりで一向に買う気配を見せない。
「心配しなくてもちゃんと奢ってやるよ?」
「あ、いえ……なんか胸が一杯で食べられそうになくて。それに、銀さんと並んで歩けるだけで嬉しいんです」
「そういう可愛い事言ってっと物陰に連れ込んじまうぞ」
「えへへ、いいですよ」
笑顔を添えた返事に躓きそうになった。
わかっているのかいないのか。
判断に困る新八の態度にわざとらしさは全くない。
だがしかし、これは新八らしい、の一言で済ませていいものだろうか。
素直さは嬉しいが、素直過ぎるのも考えものだと銀時は崩れそうな口元を手で隠した。
「んなこと言う男が何する気でいるか、お前ちゃんと判ってんの?」
「わかってますよ、銀さんじゃなかったら断ります」
「あ……そなの」
手を繋ぐだけで頬を赤らめるくせに発言は大胆で。
これは新八を甘く見過ぎたか。
とりあえず気持ちを落ち着かせようと銀時は居並ぶ露店を覗き込んだ。
風車と面が飾られた板を背に、朱の布を敷いた台の上に色とりどりの小間物が並べられている一軒。
簪、根付、帯飾り、縮緬で作った小物等々、どれも女が喜びそうな品々だ。
「これ、可愛いですね」
中に気を引くものがあったらしく、新八が近付いて品を指す。
指の先には四角の赤い座布団に鎮座した子、丑、寅。
指で作った輪に納まるほどの小さな十二支の土鈴が並んでいた。
「へえ、小っせぇな」
とぐろを巻いた蛇の頭、摘みの紐を取って耳元で振るとかろかろと柔らかい音がした。
「気に入ったんなら欲しいの選べよ」
元の位置に戻しながら横に居る新八に声をかける。
「いいんですか?」
「記念だしな」
「ありがとうございます……じゃあ、これ」
新八の指が黄色と黒の縞模様を摘んで手の平に載せた。
「お前寅なの?」
「違いますけど、何となく銀さんみたいだから」
「なんだそりゃ」
「だって銀さんって犬か猫なら猫ですもん。でも猫だと可愛過ぎるし、猫ないし……」
「何気に失礼な事言ってんな」
黒髪を指で乱すと新八が笑いながら首を竦めた。
「銀さん知ってます?遠い異国には白い毛並みの虎がいるんだそうですよ」
「へぇ」
「きっと銀さんみたいに綺麗な銀色なんだろうなぁ」
呟きながら新八が揺らした指先で、黄色い寅がかろんと鳴った。







社の奥に近付くと人影は全く無かった。
祭の喧騒を忘れた闇夜を月の光が青白く照らす。
夜の暗さを感じない不思議な空間。
等間隔の灯篭の炎が所在なさげに揺れていた。
銀時は植え込みの石垣に新八を座らせてその足元に片膝を付く。
「見せてみろ」
浴衣の裾を捲り上げ、草履を脱がせて足を持ち上げた。
「あ、でも……」
「いいって」
遠慮して引こうとするのを多少強引に膝に載せる。
祭の人混みを歩いている途中、乱雑に積まれていた木箱に新八が躓いた。
その時に箱の角で傷つけたらしい。
簡単に掴めそうな足首に綺麗に浮いた踝の、少し下辺りが切れていた。
血は浴衣の裾を少し染めたようだが出血自体は既に止まっており、皮膚にこびり付くように乾いていた。
「血は止まってるみてぇだけど……痛ぇか?」
「ちょっと熱い感じはしますけど、大丈夫です」
「そっか、大した事なくて良かった。取りあえず血ぃ拭かねえとな」
新八の足を草履の上に戻して立ち上がる。
手洗い場に行こうとして、思い返して多々良を踏んだ。
「っとそうだ、お前手拭持ってる?」
「あ、はい」
生憎と手拭を持ち歩くような習慣など銀時にはない。
「血ぃ付いちまってもいいか?」
「いいですよ」
新八が袂から取り出した手拭を受け取ると再び踵を返した。
濡らした布で血を拭い、もう一度洗い直して絞ってから傷を覆うようにきつく巻いた。
「帰ったらちゃんと薬塗らねぇとな」
「はい、ありがとうございます」
具合を確かめるように新八が脚をぷらぷらさせると裾が割れて膝小僧が露になる。
つるんとしたそこに絆創膏を見つけて銀時は小さく笑った。
気付いた新八がバツが悪そうに裾を直す。
「僕、よく躓いたり転んだりするから……」
「知ってるよ」
初めて出会った時も座布団を降らせてたらいを蹴飛ばしていた。
二人で思い出し、互いに笑う。
一度膝を伸ばした銀時は新八の隣に並んで腰掛けた。
「帰りは負ぶってってやるよ」
歩けないような傷ではないが、布を巻いた足では上手く草履が履けないだろう。
「本当ですか?」
申し出を、新八は素直に受け入れる。
相変わらずな反応に、わかっていても笑みが漏れた。
「お前ね、そこは普通恥ずかしがるとこじゃねぇの?」
冗談で茶化したつもりだったのに。
「恥ずかしくなんか、ないです」
俯く新八の手が銀時の袖を掴む。
「僕、銀さんとなら何だって、したい……」
指先に篭る力が布を引いた。
その手に触れて、甲を撫でる。
「新八……」
自分を見詰める黒い瞳から目が離せない。
「僕、銀さんが好きです」
男も女も偽りばかりを囁くこの町で、新八だけが信じられる本当で。
真っ直ぐに向けられるその想いに背を向けることなどできるはずがない。
新八の背を抱え、膝の下に手を入れて。
「あの、銀さん……」
銀時は小さな身体をそのまま自分の膝に横抱きに載せた。
「俺の事好きなんていう物好き、お前くらいだよ」
米神からそっと指を差込み髪を梳く。
そのままずらして頬に当てた手の平に新八の手が添えられた。
「だったら僕、銀さんの事独り占めできますね」
「そんな事ないですとか言ってくんねぇの?」
「えへへ」
本当は。
否定も肯定もせず、あるがままの自分を受け入れようとしてくれる新八の在り方が嬉しかった。
「銀さんが、好きですよ」
「ああ」
「これからも、会いに来てくれますか?」
「何言ってんだよ、当たり前だろ」
「良かった……」
そっと微笑む新八の、瞳に小さな月が映る。
空に浮かんだそれよりも一層輝く美しさから目が離せなくて。
絡む視線が引き合って、近づく吐息に月が隠れた。
初めて触れた唇は甘く柔らかに銀時を受け入れる。
触れていることが嬉しくて、腕にある温もりが愛しくて。
首に回された細い腕はまるで縋りつくようだったのに。
溶け合う息は震えていたのに。
どうしてそれを歓喜の所為だなどと思ってしまったのだろうか。






膝の前に漆塗りの膳が支度されている。
続きの間の、開け放した襖の向こうには別の支度もされていた。
目隠しの衝立から僅かに覗く布団の端を目にすれば、ここがどういう場所なのかなど言わずとも知れる。
艶のある黒の上に白い猪口がまるで月の様に丸く浮いている。
それを取り、透き通る酒を手酌で注ぐと一口呷った。
辛口の酒が空の胃の腑を熱く焼く。
手持ち無沙汰に酒を飲み、女を待つ。
それに何を思ったことなどなかったのに。
『言わないでくれって新八には口止めされてたんだけど、あの子があんまりにも切なくてさ……頼むよ銀さん、あの子助けてやっとくれよ』
二杯目を注ぎ乱暴に呷る。
今待つのが女だったのなら恐らくこんな気持ちにはならないのだ。
あの日縋った腕の力と震えて絡んだ吐息の訳にどうして気付いてやれなかったのか。
変わらず笑ってくれたから。
変わらず慕ってくれたから。
だから気付けなかった……など言い訳にもならない。
『うちは女しか置いてないって事になってるけど、中には男がいいって客もいる。けど隠したがるから必然裏で非合法さ。通いの客がどっかでその噂聞いて試してみたいって、新八に目ぇつけちまってね。女将さんもできりゃあの子には客取らせるような事させたくないって頑張ったけど所詮は客商売だ。金積まれて是非にと言われりゃ無下にはできない』
何故新八が……と誰かを責める事はこの町では無意味だ。
銀時もまた、金で女を買っていた一人なのだから。
それでも。
『女将さんの立場を汲んであの子承知してくれて……でもあんたにだけは絶対に知られたくないからって気丈に笑ってるの見てるともう、堪んなくてね』
話が決まってから、会う度に新八はどんな気持ちで笑っていたのだろうか。
「失礼します」
衣擦れの音がして、襖の向こうから控えめな声がする。
いつもとは調子の違う、知っているのに知らない声。
隙間からすっと差し込まれた手がゆっくりと襖を押し開き、下げた頭が現れる。
顔が上がっても視線は伏したまま、未だ銀時には気付かない。
「新八です。本日は宜しくお願い致します」
着いた手に触れるほど、もう一度深く頭を下げる。
それが少しずつ上がり、新八の顔が正面を向いた。
今度は視線も上がる。
「……っ」
銀時を正面に捉えた新八の、瞳が大きく見開かれた。
時を止めたように動けない新八を、銀時もまた黙ってみつめていた。
艶やかな黒髪は変わらず、映えるような白い花の髪留めをつけていた。
眼鏡はなく、薄い紅をつけた程度で化粧気もない。
空色地の着物の、大きく抜いた襟元が細い首を際立たせていた。
声も出せず動けずに、どのくらいそうしていただろうか。
先に動いたのは新八だった。
ゆっくりと立ち上がり歩き出す。
それはまるで油の切れた人形ようにぎこちなく、震える息遣いまで聞こえてくるようだった。
緩く着付けた着物の裾を押さえる指が白く浮き、膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪える足取りが痛いほどに伝わった。
あと一歩のところまで近づいて、新八が歩みを止める。
銀時を見つめる視線は弱々しい。
「ど……して」
掠れるような細い声。
「ど、して……居る……」
新八の身体がゆっくりと畳に沈んでいく。
その場に小さく蹲り、抱えた膝に顔を埋めた。
涙を堪える音が静かに響く。
「新八」
銀時は傍らにある膳を避け、のそりと新八に近づいた。
「新八、顔上げろ」
手を着いて、擦り寄るように覗き込む。
「お前の顔が見てぇよ」
額を合わせるとすんと鳴いて瞳が覗いた。
濡れた睫毛が緩やかに瞬く。
手をかけ顔を上げさせる。
潤んだ黒が切なくて、かかる吐息をそっと奪う。
溢れた涙が。
二度目に触れてはらりと落ちる。
それに募るのは愛しさで。
流れる筋を指で拭って小さな身体を引き寄せた。
「気付いてやれなくて、ごめんな」
頼り無い体温を腕の中に閉じ込める。
「ちが……僕が、隠した……から」
「違う、そうじゃねぇよ」
こうなってしまった時、新八には銀時の前から姿を消すという選択もあったはずだ。
けれどそうはせずに自分を選んでくれた。
その事実が銀時を力付ける。
「ごめ……なさい」
「謝んな」
震える背中を慰める。
「お前は何も悪くねぇ」
悪いのは銀時であって新八ではない。
新八はこの町で精一杯生きようとしているだけなのだ。
こうなってしまったのは全て、新八の為だと言い聞かせ本心を偽り逃げていた銀時の責任だ。
新八の世界を壊さない、ここで会えればそれでいい。
そう暗示のように思い込み、いつも笑っていてくれる新八の強さに甘えていた。
本当は見ない振りをしていただけで、胸の中には嵐のような激情が眠っていたのに。
「いつも許してくれるから、俺はお前に甘えてた」
大切な存在なのだと思いながらもその手を取る勇気がなかった。
手を取って、自分のものにしてしまう勇気がなかったのだ。
ここに居てくれれば、時々会えれば良いなんて、まるで宝物を箱に入れて仕舞っておくような、そんな気持ちでいた。
けれどその自分の弱さが招いた結果がここにある。
壊さないと言いながら、新八の世界を一番壊したのは自分なのかもしれない。
「新八……」
もう迷いはない。
この手を取り、温もりを抱きしめて放さない覚悟はできた。
こうなって気付いた愚かさは後悔のしようもないけれど。
「俺な、ホントどうしようもねぇのよ。仕事もねぇし、金もねぇし、甲斐性もねぇし……無いもんだらけなんだけどよ」
髪を飾る花を外し、薄く色付く唇の紅をねぶるように舌で拭う。
「ぁ……ふ」
「こんなん、お前には似合わねぇよ」
新八自身の唇が、唾液に濡れて赤味を増した。
そこに再び吸い付いて。
「お前の事、連れてくから」
銀時の身勝手でしかないけれど、少なくとも新八をこの場所に置いておく気は無い。
両脇から手を入れて、抱え込むように背中から抱きしめる。
「お前が嫌だって言っても攫うから」
力なく置かれた手を甲から包むように指を絡めた。
「……そんな事したら僕、食いっぱぐれちゃうじゃ、ないですか」
新八の声が泣き笑う。
俯く項に唇をつけ、音が出るように吸い上げた。
新八の肩が震える。
「うちで雇ってやるよ」
「仕事ないって、言ってたじゃ……」
言葉が詰まって、甲の上に温かいものがぽたりと落ちた。
「襖を開けて、銀さんがいて……嘘ついてた罰が当たったんだって、思っ……」
ぽたぽたと、甲を濡らす雫は止め処なく。
「気付くのが遅すぎてごめんな」
新八が銀時の片腕を抱きしめるようにぎゅっと抱えて首を振る。
「そんなこと、ないです……嬉しい」
寄りかかるように身を預けてくれた。
「でも……」
「ん?」
「お店の皆に、迷惑……」
「そこは心配ねぇよ、皆お前の味方だ」
女の言葉で気付かされた自分が言うのも情けないけれど。
「皆お前の事が好きなんだよ」
それだけで、きっと伝わる。
「僕も、皆の事大好きです」
振り仰いだ笑顔の目元は濡れている。
「俺よりも?」
残る雫を優しく拭って少しばかりの嫉妬をみせた。
「それは……種類が違うじゃないですか」
「でも俺より好きなんだろ?」
泣いて赤い鼻先に唇を寄せた。
「……銀さん我が侭」
「ホントにな」
新八に会わなければこんな自分には気付かなかっただろう。
「なぁ、今からしてもいいか?」
「え……?」
「ここで抱いても、お前平気か?」
この場所で抱く事は新八にとって辛い事かもしれないけれど、今すぐに心も身体も自分のものにしてしまいたい。
逸る気持ちを抑えたくない。
「銀さんとなら、何だって平気です」
口端にくれた口付けを、引きとめて深く絡め取る。
ゆっくりと身体を押し倒し、帯を解いて肌に触れた。
「布団、すぐそこなのに……」
「あと一歩も待てねぇの」
脇からそっと手の平を下ろし、膝を立てさせ身体を入れる。
内股を撫でると新八の手が肩を掴んだ。
「あ、あああの、一つだけっ」
「うん?」
「あのっ、僕初めてなんでっ……」
「初めて……って」
「僕、お客さん取るの銀さんが二人目なんです。最初の人の時、僕怖がっちゃって……そしたらあの、その……は、挟むだけで終わらせてくれて……」
必死の新八は耳まで赤い。
「んじゃ中に挿れられんの、俺が初めてって事?」
こくり。
「俺がお前の初めて?」
こくこくり。
「こりゃ……かなりくんな」
「え?」
「堪んねぇって事」
「ひゃ……ん」
親指で触れた胸の突起に新八が跳ねる。
「ったく色気がねぇな」
「ご、ごめんなさい」
「色気なんかねぇ方がお前は可愛いけどな」
「そう、ですか?」
「んー、ま、どっちでもいいけど」
「どっちなんですか」
「新八ならそれでいいって事」
口付けて、身を起こすために付いた手の平が何かを踏んだ。
「なんだこれ」
「あ」
敷いた新八の着物の袖にぽこりと膨れた違和感がある。
手を入れて取り出せば、それは祭の日に買った寅の土鈴。
「僕のお守り、です」
手の平に返してやると大事そうに包み込んだ。
その手首を掴んで口元に寄せ、握った指に口付ける。
そのまま畳に押し戻し、頭の上で縫いとめた。
「これからは俺でいいだろ?」
「あはは、やっぱり銀さん我が侭だ」
「お前の事だけ、な」
額の生え際に指を滑らせると気持ち良さそうに目を細める。
「すごい……夢みたい」
溢れた涙が目尻を流れ、銀時はそれを舌で追う。
肌を吸い上げそのまま辿れば新八の喉が切なく鳴いた。
縫いとめた手が力を失くし、解けた指から零れた鈴がかろりかろりと畳を転がる。
あの日新八は、気付かぬ自分の隣でこの音を寂しく聞いたのだろうか。
空になった新八の手の平に重ね合わせて温もりを綴じる。
「夢じゃないって教えてやるよ」
自分もまた確かめるように、銀時は深く新八の肌に触れた。



どうかあの日の鈴の音が、新八の胸に優しく響くようにと願いながら。



20091012
20150718加筆修正