090729
「お前、名前なんてぇの?」
胡坐をかいた自身の足元。
顔を埋める少年の、さらりとした黒髪を撫でながら銀時は尋ねた。
まだ力のない男のそれを活きづかせようと触れかけていた唇が、ふっとした吐息と共に留まる。
きょとん、という形容詞が一番似合いそうな、大きめの黒い瞳が銀時を見上げた。
疑う事を知らないような透明な黒は、何処までも落ちていきそうな深さを持っていて。
「新八です」
大人になりきらない柔らかな声が名を告げた。
「ホントの名前?」
こういった店では通常源氏名を使用する。
名が、少年の雰囲気に誂えたようにしっくりと来る事に興味をおぼえてなんとはなしに聞いてみたのだけれど。
「そうですよ」
あっさりと返ってきた返答に銀時はやや目を見開いた。
不思議そうな顔をする新八の、すべらかな頬に手を当てて。
「隠さねぇの?」
尋ねれば、新八は柔らかそうな唇を笑みの形に引き上げた。
「お兄さんはここがどういうところか知ってるでしょう?」
肌を隠す布一枚を纏ったままで、小首を傾げる様はなんともいえぬ艶を帯びる。
「帰る場所も大事なものも、僕には何もないんです。あるのは名前と身体だけ……だから」
腰を上げた新八が膝立ちのまま銀時に近付く。
「たまにね、お客さんに名前呼んでもらえると、ああ僕ここにいるんだなって思えて嬉しいんです」
腰を跨いだ新八の腕が首に回る。
「誰にでも教えんの?」
とても自分を受け止めきれるとは思えない細い腰を引き寄せて。
「僕はお金で買っていただく身分ですから」
ゆっくりとした微笑に、銀時は己の思い違いを知る。
透明な瞳は疑いを知らない純粋さではない。
諦める事を身につけた、なにものにも囚われないが故の執着のなさなのだ。
「僕、あんまり人気ないから……お兄さんが選んでくれて嬉しかったです」
綺麗に笑う、と思うけれど。
この下に隠された、本当の笑顔を何故かとても見たいと思う。
「あんま人気ねぇの?」
手を外させて、掴んだ指先を口元に寄せる。
商売柄気を使ってはいるらしいが、水仕事で荒れた肌は容易には隠せない。
少しざらつくそれにそっと舌で触れた。
「地味で冴えない眼鏡だとやっぱり駄目みたいです」
新八はくすぐったそうに首を竦める。
店に入った時、足を洗う桶を運んできた新八の甲斐甲斐しさが気に入って、こいつは店に出ないのかと女将に尋ねた。
さほどの問題もなく部屋で待つようにと案内されたけれど、物好きな、といわんばかりの顔を女将はした。
今は見る目のない女将の節穴に感謝するばかりだ。
「新八」
「あ……」
唇に触れることは止められていたけれど。
「お兄さんの呼び方、優しくて好きです」
濡れた桃色がどうしようもなく愛しくて。
「俺の名前、銀時っての」
「銀時、さん?」
「うん、そ」
瞳の黒が艶やかに濡れる。
「名前教えてもらえたの、初めてです」
「初めて?」
「うん……皆、あんまり呼ばれたくないみたいで……」
擦り寄る体温。
それを自分以外の誰かも知っている。
はたと自覚したその事実を、受け入れたくないと思う自分がいる。
「なぁ新八」
自分に比べれば、切ないほどに小さな身体を抱き寄せて。
「お前、ここに居たい?」
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