涙が綺麗なものだという事を、銀時は新八に出会って知った。
銀時自身、泣くという行為を忘れて久しく、多分もう泣き方を覚えていない。
過去に見てきた他人の涙はどれもこれも自分可愛さに流れるものばかり。
けれど新八は。
新八はいつも銀時の為に泣く。
初めて意識したのはいつだったか。
つまらないいざこざで肩に受けた刀傷。
自分で手当てをしていた所を見つかって、黙って包帯を奪われた。
何かをしでかすといつもうるさいくらいに小言を言う新八が黙々と手当てをし続けて。
気まずさにあらぬ方を向いていたら手の甲に熱を感じた。
見ればそこには数滴の水の跡。
またすぐに一滴、熱い雫が目の前で落ちて。
逆に辿って顔を上げれば、それは新八の瞳から溢れていた。
「なんで泣いてんだよ」
痛くはないのだと笑って見せれば一層悲しげに眉を寄せ、違うのだという風に首を振る。
その拍子にまた一粒パタリと落ちて銀時の手を熱くした。
巻き終えた包帯の結び目を整えて、落としていた片袖を新八の手が直してくれる。
その間も黒い瞳はずっと涙を湛えていて。
涙の訳を知りたくて、銀時は襟を整えていた細い手首を両手で捕らえた。
「怪我してきたから怒ってんのか?」
それくらいしか思い当たる事がなくて、物言わぬ新八に問うてみる。
新八が、わけもわからずただ涙を流す事が銀時を不安にさせた。
問いかけに、またゆるりと首を振って呟くようにこぼす。
「お願いですから……」
掴んでいた手首がぴくりと動いたのに力を緩めてやると新八の手首がするりと抜けた。
今度は逆に新八の両手が銀時の左手を包むように握って。
「お願いですから……一人で全部、隠さないで」
祈るように額をつけて。
「僕にも心配、させてください……」
囁きは微か。
それでも。
言葉は手の温もりや涙と共に熱となり、銀時の左手からゆっくりと全身を溶かすようにめぐった。
そして最後に心に届いて。
銀時は初めて、新八の涙が自分のためのものなのだと知る。
身体中を駆け巡るこの感情は戸惑いなのか、歓喜なのか。
こんな感情は今までに知らなかった。
「新八」
伏せられた顔を空いている右手で持ち上げる。
流れる涙はどこまでも透明で。
なんて静かに、なんて綺麗に泣くのだろうと銀時は思った。
そして初めて涙は美しいのだという事を知ったのだ。
あの時から新八は鮮やかに銀時の中に存在している。
涙を拭おうと伸ばした手を、ふとそのまま頬に留めて思いつきで舌を伸ばす。
目じりに溜まった雫を舌ですくって舐め取った。
離れる瞬間にちゅっと口付けて。
「しょっぱ。新八のなら甘いと思ったのにな」
そう言ってにやりと笑うと新八の頬に朱が走った。
「いつも、いっぱい泣かせてごめんな?」
口では謝りつつも、きっとまた自分は泣かせてしまうのだろうと銀時は思う。
わざと泣かせようとしているつもりはないのだが「泣かせる、泣かせない」の選択肢が出た場合、往々にして「泣かせる」を選んでしまう事実は否めない。
正直な所、めったに泣く事をしない新八だから泣いて欲しいとも思うのだ。
泣かせたい、なんていうのは語弊があるかもしれないけれど。
心に溜まった感情を自分の前に曝して欲しい。
新八の泣き顔が好きだった。
勿論笑顔も、怒った顔も、困った顔も何もかも。
新八の感情の全てを自分のものにできるのならと思うのだ。
「っ……すぐ変な事言うし、するし。やっぱり嫌いですっ」
目じりの涙を舐められて、からかうような銀時の言葉に新八の頬はますます朱に染まる。
そのまま膝の上から降りようとするのを許さずに、また両腕で閉じこめて。
「好きって言ってくんねーの?」
耳元で問いかけた。
「やです」
「なんで。いーじゃん」
きゅうっと締め付ける銀時の腕の中で新八は精一杯腕を突っ張って距離を取ろうとするけれど、力の差は歴然。
もがいても、びくともしない二本の腕にとうとう観念して。
「……手伝ってくれたら考えます」
新八は力を抜いて銀時に身体を預けた。
本当に嫌ならば殴るなり蹴るなりすればいいのにそれをせず、結局は銀時の我侭を全て受け入れる。
その事がどれだけ銀時の心を満たすのか、きっと新八は知らないのだ。
「んじゃ」
「え?……わゎっ」
新八の胴に回した腕はそのままに、よっと立ちあがる。
その密着した状態で蟹のように横歩きをして一歩、二歩、三歩……。
ずるずると軽い身体を引きずったまま銀時は向かいのソファに移動して洗濯物の山の隣に腰を下ろした。
勿論新八は自分の足の間に座らせる。
「なんなんですか、これ」
身を捩って新八が銀時を睨みつける。
「何っておめー、あれだよ。お手伝いしてやろうってんじゃねーか」
「は?意味わかんないんですけど」
有無を言わさず引きずられ、挙句に足の間に拘束されて。
この体制で手伝うの意味がわからない。
剣呑な視線の新八の言い分は最もだろう。
「まあ見てろって」
そう言って銀時は横の山からシャツを一枚取り上げ新八の膝に広げると後ろから回した腕で器用に畳んで見せた。
「な?」
新八の膝の上には綺麗に折りたたまれたシャツ。
その上に新八の手を置かせると肩口から顔を覗きこんだ。
「んでこれを新八がそこに置く。はい、置いて」
洗濯物の積まれたテーブルの上を指差す。
新八の身体があるために銀時の手はテーブルまで届かないのだ。
いわれるままに新八は畳まれたシャツを先刻まで自分が作っていたブロックの上に積み重ねた。
積み重ねたその布地を暫しの間見つめてから新八はぼそりと呟いた。
「……本当に意味がわかんないんですけど」
布地を見つめたままの新八は無表情だ。
心なしか声も冷たい。
だがそんな事を気にした風もなく(実際表情が見えていないのだが)銀時は目の前の肩に顎を乗せ身体に腕を回しつつ得意げに言った。
「俺が畳んで新八が置く。立派な愛の共同作業じゃねーの」
「……はぁ」
小さく溜息をついた新八の身体が腕から抜け出そうとするのを肌で感じて銀時は拘束を強める。
新八も本気で抜け出そうとは思っていないのですぐに力を抜いて身体を預けてきた。
「銀さんが手伝ってくれるならその間に他の事やりたいのに……これじゃ意味ないって言うか、これだと僕が手伝ってるんですけど……」
間近から見上げてくる瞳は咎める色を含んでいるけれど、腕の中に納まった身体が許しているのだと教えてくれる。
「まぁまぁ、いーじゃねーの」
ぽんぽんと新八のお腹辺りを軽くたたいて。
「考えてみ。三十路近いおっさんがよ?自分の膝の上でせっせと洗濯物をたたむ図なんて涙しか出ないじゃないのよ」
「……十六歳の若者が家事に追われる姿は可哀想じゃないんでしょうか」
「奥さんが家事に勤しむ姿は幸せの象徴だろが」
朝から新八がパタパタと動き回る姿が嬉しくて、幸せで。
だからずっと目で追っていたのだとは怒られるから言わないけれど。
「あんたの脳みそ、砂糖でできてんじゃないですか?」
「舐めてみっか?」
「……ばか上司」
ぼそりと呟いて新八はごそごそと体勢を入れ替えた。
銀時の胸に耳を当てるように横向きになってしまうと全身から力を抜いて息を吐く。
「疲れちゃった……。僕寝ますから」
「え、え、え?」
「お腹がすいたら起こしてください」
それは、食事の支度までは起こすなという意味で。
自分に身体を預けて完全に眠る体勢に入った新八に銀時は慌てる。
「新八寝るの?寝ちゃうの?」
「寝ます」
「これどうすんの……?」
隣の山を指でさす。
「夜やりますよ。銀さんが」
「ああそう、銀さんがね……って俺?俺がやんの???」
驚いた顔が一瞬あとに心底嫌そうな表情に変わる。
それにぷっと吹き出して。
「僕も半分やりますから。今度こそ手伝ってくださいね?」
お願いします、と見上げてくる目元は泣いたせいで少し腫れぼったい。
瞼に唇を当てると熱が伝わってきた。
自分のせいだけれど、自分のための愛しい熱さ。
「しゃーねーな。たまには銀さんが全部やってやっから。今日は飯食ったらゆっくりしとけ」
唇に睫毛が当たって新八の瞬きが伝わる。
古典的に言うのなら、ぱちくりという音が聞こえてきそうだ。
「どういう風の吹き回しですか?槍とか降ったら困るんですけど」
「おまえねぇ……。人の親切は素直に受けとくもんだろ。可愛くないよ?」
「僕が可愛かったら気持ち悪いですよ」
「……自覚がないってのは怖いねー」
「はい?」
「なんでもね」
首を傾げる小さな頭をクシャリとかき混ぜ胸元に寄せた。
「とにかく、やってやるっつってんだからもらっとけっての。ほら、寝ろ寝ろ」
照れ隠しにさらに大きくかき混ぜるけれど新八の素直な黒髪はすぐにさらりと戻ってしまう。
ぽんと頭に掌を置いて。
「ほい、おやすみ」
新八を胸元に落ち着かせる。
背もたれに首を預け、天井を仰ぎながら夕飯までの数時間をどう潰すそうかと考える。
どの道新八を抱えている以上何をするともないのだが。
軽い身体を抱き上げて、向かいの開いているソファに移すことは造作もない。
だがそれはしたくない。
だったら。
新八の寝顔を堪能しつつ自分も少し眠ろうと決め顔を戻した胸元でじっと見上げる黒い目とぶつかった。
「どした?」
寝ないのか、と額にかかる髪を柔らかくかきあげてやる。
新八は銀時の顔をじっと見つめている。
何かを決意して、でも少し躊躇している緊張感が伝わってくる。
一体どうしたのかとしばらく様子を見ていると、やがて意を決した新八が行動を起こした。
服の襟を掴まれてぐっと引かれる。
力を入れていなかったので銀時の身体は簡単に傾いてしまった。
屈みこむ形になった銀時の唇に触れる熱は新八のもの。
本当に触れているだけの、ささやかな新八らしい口付け。
「おやすみなさいっ」
数秒で唇を離した後顔を真っ赤にした新八は、銀時の襟元を掴んだままそこに顔を埋めるようにして眠りに逃げ込んでしまった。
その数秒間、銀時は微動だにしなかった。
驚いて動けなかったわけではない。
もちろんめったにない(だが効果絶大な)新八の奇襲に一瞬気をとられはしたけれど。
戦うべきは己自身だった。
必死に自分に触れる新八の唇。
少し震えていたそれを舌で割開き、全てを舐め尽してしまいたい衝動を抑えるのに必死だったのだ。
あの口付けは多分銀時の胸を借りて自分だけ眠ってしまうことへの新八なり気持ちの表れ。
礼のつもりだったのだろう。
だから尊重したかった。
しかし。
新八の落とした爆弾は大きかった。
銀時は大きく息を吐いて天を仰ぐ。
「なぁ新八ぃ……、蛇の生殺しって知ってっか?」
己の陥った状況に思わず弱音が口をつく。
そういえば昔、蛇腹板の上に正座をして石を抱かせるという拷問があったらしいが、今現在自分が直面している状況はそれよりもはるかに過酷な気がした。
いつの間にか寝入ってしまったらしい新八の穏やかな寝息が耳に届く。
できるだけどうでもいい事を考えようと銀時は今月に入ってつぎ込んだパチンコ代を頭の中で計算してみるのだった。
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