千石さんとご一緒させていただきました、2008年2月オンリー発行の「言問」です。
「携帯」をテーマにした本でした。
時代の流れは目まぐるしいです。
お手数ですが二つ折りのガラケーを頭に浮かべてお読みください(笑)
因みに拍手の坂田君と志村先生が元ネタです。
宵闇の住宅街。
薄っすらとした月明かりに照らされた、頼り無いアスファルトが奇妙に浮かび上がる狭い道を新八はゆっくりと歩いていた。
すれ違う人影は一つもない。
繁華街ならばいざ知らず、こんな住宅街では当たり前だろう。
既に夕食を済ませ一家団欒にTVでも囲んでいるのが普通の時間帯だ。
立ち並ぶ家々の四角い窓。
黒いシルエットの中で一際明るく浮き上がるそれは、さながら影絵を思わせる。
闇の中で一層温みを増すカーテン越しの仄かな明かり、それをあまり視界に入れたくなくて、新八は真っ直ぐに前を見据えると歩調を速めた。
自分の足音しか響かない路上。
静かな中に突然響き渡った、おそらくは携帯の着信音に新八はピクリとして足を止めた。
すれ違うであろう他人に対して緊張に身体を強張らせ前方を凝視する。
けれど、いくら待ってみても音はすれども姿は見えず。
携帯電話片手に歩いてくる人影は気配すらなかった。
恐る恐る足を進めて行くとコールが途切れて。
一呼吸の間を置いた後再び鳴り出した。
音を辿るように歩み続けると生垣の根元辺りに光るものを見つける。
よく見ればコールに合わせて震えるように本体を光らせる携帯電話が己の存在を主張していた。
闇に逆らうように震える光に手を伸ばす。
どうしようと、思ったわけではなかったけれど。
鳴り続けるそれを新八は拾い上げた。
はっきりしない闇の中では本来の色はわからない。
薄い塊の、四角い表示窓が灯る家々の窓明かりのようにぽっかりと浮かぶ。
闇に光るその灯かりに、意味もなく覚える安心感。
誰のものとも知れないのに、この先には誰かがいるのだ。
まるで呼ばれているような錯覚に新八はコクリと喉を鳴らした。
またコールが途切れる。
諦めてしまったかのようなそれを残念に思う自分がよく分からなかった。
だから。
三度目のコールが鳴り始めた時、新八は思わず通話ボタンを押してしまっていた。
「……はい……」
持ち主の知れない落し物。
他人の携帯だ。
それをわかっていながら相手と繋がって。
何をいえばいいのか、わかるはずもなかった。
「あ。あんた誰?」
耳に届いたのは男の声。
少し低い、けれど耳障りの良いトーン。
まだ二十代くらいかもしれない、若い声に感じられた。
声の主は新八が出たことにさほど驚いた様子は感じさせなかった。
まるで知らない相手が出ることが判っていたかのような口ぶりだ。
「え……あの……」
「あー、まぁいいや。あのさ、それ、俺の携帯なんだよ。落しちまって。ずっとかけ直してたんけどさ。でてくれてマジ助かった」
新八のほうがかえって戸惑ってしまったくらいにその運びはスムーズだった。
「はぁ……」
簡潔な説明で相手の正体は容易に知れた。
声の主の落とした携帯を新八が拾った。
持ち主は自分の携帯を鳴らし続け運良く誰かが拾って出てくれるのを待っていたのだ。
わかったけれど、それで自身はどう応えればいいのか。
考えて通話ボタンを押したわけではなかった新八は、とっさには言葉が出てこず曖昧な反応になってしまう。
「引いてっかもしんねーけど、別に俺怪しくねーから……っつってもあれか。俺坂田、あんたは?」
相手はそれを気にした風でもなく自身の正体を告げる。
物怖じしない態度は新八を冷静にさせる。
それでも。
「…………」
無防備に自分を晒す事が躊躇われて、声を出す事はできなかった。
「もしもし?」
怪訝そうな相手の声。
この声の主に、この携帯の届け先を告げてしまえばそれで全ては終わる事だ。
あえて自分の名を告げる必要はどこにもない。
それなのに、必要最低限のことすら言葉にはできず沈黙を解く事ができない。
「もしもーし、聞いてる?すげー勝手なこと言って悪いと思うけど、携帯ないと俺も困んだよ。ちゃんとお礼とかするし。助けてくんない?」
一歩引いたその態度。
相手には何の非もない。
寧ろ良心的だ。
困っている相手に対して適切に対応できない新八の方がよほど悪質だという自覚もある。
それでも声が出ない。
最初に耳に飛び込んだ、声のトーンが忘れられない。
好きな声だ、と思ってしまった。
これをなくしたら全てが終わってしまう。
どうする勇気もないくせに、このままどこかで繋がっていたくて。
新八の指は通話ボタンを切っていた。
かかってこないように電源も落としてしまう。
少し、手が震えている。
「坂田」と名乗った、声しか知らないどこかの誰か。
この携帯をどうしよう。
光らなくなってしまった携帯はひたすらに沈黙を守る。
それを見ていると自分の行動に後悔がじわじわと押し寄せる。
もしかしたら今もこの携帯には着信があるのかもしれない。
新八がそれを拒否している。
自身でそうしてしまったくせに、沈黙が怒りに感じられて。
今更どうすればいいのかわからなくて、黙り込んでしまった携帯を片手に新八はただ途方に暮れるしかなかった。
六畳一間の小さな部屋。
狭いキッチンと申し訳程度のバス、トイレ。
何もないけれど、心の休まる新八の小さな王国。
日に焼け色あせてしまった畳の上、常に出しっぱなしの簡易机の前に新八は座っていた。
隅が少しはげてしまった花柄模様は二つ年の離れた姉に貰ったお下がりだ。
黄緑の地に散った小さな白い花。
まるでそれに埋もれるように携帯電話が置かれている。
新八自身のものではなく一週間前に拾ったものだ。
思い込みと言ってしまえばそれまでだけれど、
誰もいない夜の道で、まるで新八を呼ぶように鳴っていた。
だから、つい誘われるように通話のボタンを押してしまったのだ。
その時に電話をかけ続けていた落し主と繋がって。
そのまま正しい選択をしていれば、この携帯は本当だったらきちんと返せた、ここにはないはずのものだった。
それなのに、未だにここにある。
返して欲しい、礼はするから、と至極真っ当な相手の訴えを新八が無視するように電源を切ってしまったからだ。
それきり沈黙を守ったまま一週間、携帯はこの机に置いたまま。
以来一度も電源を入れていない。
新八は家に帰る度この前に座り、ただひたすらため息を吐いている。
拾って以来続いている、非生産的な日課だ。
そんな事をしていても何も解決しない事くらい嫌というほどわかっているけれど、どうしたらいいのかわからないのが正直なところ。
本当に、どうしてあんな事をしてしまったのだろう。
自分で蒔いた種だとわかってはいるけれど。
新八はまた一つため息を吐いた。
もしため息に色がついているのなら、この狭い室内はきっとその色で煙っているに違いなかった。
薄い機体をそっと手に取る。
軽いけれど重い。
この一週間ですっかり手に馴染んでしまった感覚。
派手さを抑えた薄いシャンパンゴールド。
落ちた弾みなのか持ち主の使い方なのか。
本体には少し目立つ擦り傷があった。
指の腹でそっとなぞると微かにざらりとした感触が伝わった。
『俺坂田、あんたは?』
声が、今も耳に残っている。
一週間も経つのに、この電話を耳に当てればすぐに聞こえてきそうなほど、未だに鮮明に覚えているのだ。
咄嗟に切ってしまったけれど。
冷静に考えてみれば、自分の行動ながらめちゃくちゃだと思う。
携帯を返す時に連絡先を聞くなり一度会うなりのチャンスはあったはずだった。
少なくともその場で終わり、という事になるはずはなかった。
けれどあの時にそんな判断はできなかったし、それに会ってどうこうなどという行動力のある人間ではないのだ。
どうしたい、という確固たる気持ちがあるわけでもない。
ただ携帯の向こう側から耳に飛び込んできた声が、どうしてか心まで届いて。
ただ繋がっていたいと思ってしまっただけなのだ。
矛盾するように切ってしまったのは自分だけれど。
帰宅して、毎日こうして携帯の前に座ってため息を吐く。
電源を入れようと指を伸ばしてはみるけれど、一度も力を入れられない。
入れた途端着信が鳴るかもしれないと思うと怖くて身体が震えるのだ。
それだけの事をしたという自覚はあるけれど、やはり怖いものは怖い。
でも、それももう限界だろうという自覚もあった。
こんな事を繰り返していてはいけないとわかってはいるのだ。
「坂田」と名乗った相手は間違いなく怒っているだろう。
いまや携帯電話といえば命の次に大事だと言っても過言ではない情報の塊だ。
それを持ち逃げされたようなものなのだから、下手をすれば警察沙汰かもしれなかった。
自覚していながら一週間放置してしまったのはひとえに自分の臆病と怠慢だ。
今日は休日で。
覚悟を決めて今日こそ、と携帯の前に座ったのが朝。
太陽はもう真上にきていた。
最初の一歩を躓いただけなのに、その最初の一歩がどんなに大切なものなのかを思い知らされて。
応えてくれるはずもないのに、助けを求めるように携帯を見る癖がついてしまった。
あんなこと、しなければよかった。
今更のような反省をして一度目を閉じる。
ゆっくりと開いた視界に映る携帯。
新八は震える指でそっと電源に触れた。
人間の緊張が持続するのはどれくらいだろうか。
新八が意を決して携帯の電源を入れてから数時間。
携帯は未だに沈黙したままだった。
電源を切っていた間に入っていた着信は数件あったがそれを新八がどうこう出来る筈もなく、ただひたすらにかかってくるのを待つしかない。
馬鹿みたいだけれど、新八はずっと携帯の前で正座をしていた。
たったの数分が何時間にも感じられるようなあの時間はおそらく新八の生涯の中で一番緊張したひと時だろう。
かかってくるのも怖いけれど、何も反応がないのも逆に怖いものだと思い知る。
いっそ一思いに引導を渡された方がどんなに楽か。
新八は携帯を手に取ってみる。
息を吹き返したディスプレイはきちんと時を刻んでいて、液晶が数字を映している。
14時23分。
新八は窓から外を見る。
今日はとても天気がいい。
日曜のこんな時間、果たしてこの携帯の向こうに人はいるのだろうか。
もしかしたら、何かあるのなら夜になってからかもしれない。
そう思った途端、緊張の糸が切れてしまった。
大きく息を吐き脚を崩す。
「はぁ……」
気を抜いた瞬間。
静かな空間に響く音。
着信音だ。
構えていなかった心臓は新八の意思を無視して大きく跳ねる。
思わず胸を押さえてしまった。
身体の中から響くような心音を耳元で聞きながら少し震える手元を見る。
相変わらず携帯は沈黙したままだった。
落ち着いて、それが拾った夜に鳴り響いたものとは違う事に気付く。
よくよく部屋を見渡せば、充電器にさしたままの新八の携帯が着信を知らせていた。
気持ちを落ち着かせるように息を吐いて携帯を取る。
表示されていたのは唯一登録してある名前。
姉のものだった。
通話ボタンを押す。
「はい」
『もしもし、新ちゃん?』
「うん」
『久しぶりね。元気でやってる?』
電話口から聞こえる声は変わらない。
いつも気丈な姉のもの。
両親を亡くして以来、すっと新八を導いてくれた声だった。
『たまには電話してねって言ってるのに、全然かけてくれないじゃない。ちゃんとご飯食べてるの?』
「うん、ごめん……仕事、忙しくて」
週に一度は連絡を、といわれているけれど。
殆どそれをしない新八は言葉を濁すように代わり映えのしない言い訳をする。
姉も全てを承知した上でこうして根気良く電話をかけてくれる。
心配を、かけたくはないのだけれど。
何を言葉にすればいいのかわからなくなるのだ。
『風邪引かないように、ちゃんと温かくして寝るのよ。あと栄養のあるものちゃんと食べてね』
「うん、わかってるよ。ありがとう。姉さんも身体に気をつけて。うん、じゃあまた」
ほんの数分のやり取りを済ませ通話を切る。
再び充電器に差し込んで、新八は後ろに倒れこんだ。
姉の声を聞いた後には嬉しさと、ほんの僅かな苦味が残る。
その理由に思いを馳せると新八の心は深く沈んだ。
自分がどこか他人と違うと自覚したのは小学生の頃だった。
誰に教えられたわけでもなく、肌で感じる違和感。
同級生が茶化すように好きな女の子の話をしている時に、自分の気になるのが同性ばかりだと気づいた時から新八の世界は閉じてしまった。
怖くて、どうしたらいいのかわからなくて。
自覚したのと時を同じくして両親を亡くしてしまった事で全ては新八の内側に閉じ込められてしまったのだ。
どこに吐き出すこともできず、勿論以来親代わりに自分の面倒を見てくれた姉に打ち明ける事など当然出来るはずもなく。
気持ちは澱のように日々新八の中に積もり続けるばかりで。
友人を作る事もしない新八を姉は心配してくれた。
申し訳なさを感じる毎日の中で新八の就職が決まり、姉の結婚が決まり。
自分だって中学生だったのに、ずっと新八の事ばかり考えて、自分の事は二の次だった姉。
やっと新八から解放された姉の、自身の倖せが訪れる事で救われるような気がしていたのに。
彼女の倖せを心から嬉しいと思ったのは嘘偽りない新八の気持ちだった。
相手の人はとても、いい人で。
彼ならば姉を必ず倖せにしてくれる、そう確信を持てるような人物だった。
それなのに。
自分の気持ちが少しずつ揺れるようになっていくのがわかって、新八は怖かった。
恋情ではないのかもしれない。
ただ、兄を慕うような単純な好意なのかもしれない。
自分でも確信がもてるほど確かな気持ちだったわけではない。
それでも、同性しか好きになれない自分が相手に好意を抱く事はとても穢れた事のようで。
姉に対する酷い裏切りなのだと思った。
倖せを願う気持ちに何一つ嘘偽りはないけれど、そばにはいられないと思ったから。
相手の仕事の都合もあり、結婚を機に姉が遠くに嫁ぐと決まった時は正直胸を撫で下ろしていた。
逃げているだけだとわかってはいたけれど、新八の心の平穏はそれで無事に保てたのだ。
両親の残した土地と家を売り払い、一人暮らしをすると決めた時、姉は一人反対し一緒に住もうと言ってくれた。
けれど、彼女の倖せを邪魔したくはなかったし、自分は一人で生きていくべきだと思った新八の意志は固かった。
生まれて初めて彼女に逆らったあの日。
あの時見せた姉の寂しそうな表情を、新八はきっと一生忘れない。
渋々ではあったけれど、承知してくれたその時の条件が携帯電話で。
連絡の手段として彼女のたっての願いで持つことになったのだ。
充電器にずっとさしたままのそれは、月に一度心配で痺れを切らした彼女の着信だけを受け続けていた。
職場とこの部屋を、往復する毎日の繰り返し。
必要最低限の人間関係しか築かない閉じた世界は寂しいけれど居心地が良くて。
新八は嫌いではなかった。
手にしたままだった拾った携帯を見る。
あの時、自分を呼ぶようなこの携帯のコール音に何かが変わる気がして拾ってしまったけれど。
結局何も変わらない。
変わってしまうことが怖いと思っている自分がいることもわかっている。
だからこの一週間、わかっていながら何もできなかったのだ。
相手の人には悪いけれど、近くの交番に届けてそれで終わりにしてしまおう。
ほんの少しだけ夢を見てしまったけれど。
全部なかった事にしてまた繰り返す毎日に戻ろう。
そう思った瞬間。
まるで狙ったようにコールが響いた。
耳から入った音は痛いくらいに新八の胸を突き刺す。
心臓は早鐘を打っていた。
手の中で音にあわせて震えるようにライトが光る。
まるで今までの事を責めているような点滅にほんの僅か躊躇してディスプレイを見る。
表示されているのは数字のみ。
名前の登録はないようだった。
果たして繋がるのは落とし主なのか、もしくは落とし主の知り合いなのか。
気持ちを落ち着かせるように息を吐き出して、新八はゆっくりとボタンを押した。
「もしもし……」
耳に当たる機体は冷やりとする。
震えそうになる声を懸命に堪え抑えて音にした。
少しの間があって。
『あ。あんた、この間の人?』
耳元に聞こえてきたのはあの日の声。
新八の耳の奥に鮮明に残っているものだった。
トーンから感情の程はまだ窺えない。
コクリと喉を鳴らして、新八は居住まいを正した。
「あの、さ、坂田さんですか?」
覚えている名前を初めて声に出してみた。
『へぇ、俺の名前覚えてくれてんだ』
「はい……あの、僕……」
開口一番怒鳴られでもするかと思ったのに、予想に反した不思議なトーン。
どうしようかと構えていただけに言葉に詰まってしまった。
電話口の向こうではこちらの出方をみているようで静かな時間が続く。
その沈黙で少し落ち着いた新八は言うべき事を言わなくてはと言葉を紡いだ。
「あのっ、この間はごめんなさい。携帯、お返しします。お詫びもするので……僕、どうしたらいいですか?」
自分のした事の非は十分にわかっている。
けれどそれをどう形にすればいいのかなんてわからない。
相手が望むならなんでもするつもりだった。
それが自分にできることならば。
『あんたさ……』
吐き出す息が聞こえて。
何故か少し怒ったような、呆れたような、硬いトーン。
『会った事もない見知らぬ相手にそういう無防備なのってどーなの。近頃物騒だぜ?俺がとんでもない人間だったらどうすんだよ』
説教めいた小言。
「でも……僕、あなたに酷い事しちゃったし……どうやってお詫びしたらいいかわからなくて」
確かに考え無しな言動ではあったかもしれないけれど、警戒心を起こさせない雰囲気を坂田から感じる所為もあったと思う。
『なんかなー、あん時あんたに電源切られちまって。正直すげー腹立ったんだけどさ』
腹が立ったと言いながらもその口調から怒りは感じられなかった。
「怒って、ないんですか?」
『怒ってるか怒ってないかっつー二択なら、まぁ怒ってっかなーって感じだけどさ』
「そ、うですよね……」
『んー、これがさ。携帯ってなきゃないで結構何とかなんだよなーって事に気付いちまってさ。ま、普段からあんまり使ってなかったらしいっつーかね。考えたら自分からかける事ってあんまねーのな』
腹が立った、怒っているという言葉とは裏腹に、電話口の声は常に穏やかなトーンを纏って新八を責める事を決してしない。
「でも、やっぱり携帯電話って大事じゃないですか?」
『俺さ、前に一回トイレで落とすって定番の失敗してさ。それ教訓にしてアナログも大事にしてんだよ。だから実はあんま困んなかったっつー』
「そう、なんですか……」
『そう、なんですよ。でもやっぱ自分の手元にないと困るってのはあるからさ。駄目元でたまにかけてたんだけど、まさか繋がると思ってなくて実はちっとばかし驚いてる』
まるで笑い話をするかのような軽い口調。
新八は不思議な気持ちになる。
あの日のことは別にしても。
初めて話す相手なのに、どうしてこんなにも自然に会話を交わせるのだろう。
溶けるように耳から入る彼の声が、まるで昔から知っている人のもののようで、怖いくらいに心地いい。
いつの間にか緊張に握り締めていた拳は膝の上で解けていた。
『とりあえずさ、まず一番知りたい事あんだけど』
「はい……」
『あんたの名前』
もし、自分が逆の立場だったら。
きっと何故こんな事をしたのか問い質すだろうと漠然と思うのに。
相手は新八の名を知りたいという。
いうほど他人を知らないけれど、とても不思議な人物だと思った。
「志村です」
『志村、何?下はNG?』
「志村新八」
『しむらしんぱち、ね。俺は坂田銀時。結構変わった名前だろ』
“銀時”という響きは何処となく古風な雰囲気が漂う。
知らない人なのに。
新八は聞こえる声にとても似合っていると思った。
「珍しいなとは思いますけど……でも響きがかっこいいと思います」
『そんなん言われたの初めてだね。すげー照れんだけど』
おかしそうに笑うから、新八も自然に笑みが零れた。
そうして気付く。
あまりにも自然な会話が楽しくて、許された気になっていた自分に。
今こうして会話をしている携帯は彼のものなのだ。
いつまでも新八が所有しているわけにはいかない。
「坂田さん」
『なに?』
「あの、自分のした事、本当になんてお詫びをすればいいのかわからないですけど。携帯お返ししたいので、どうすればいいのか言ってください。指定してくださったら届けますし……」
そう言った途端に暫しの沈黙が訪れた。
「坂田さん……?」
黙り込んでしまった電話口。
その沈黙は気まずいものではなくて。
何故か空気が伝わってくるようだった。
例えるのなら、悩むように頭を抱えているような。
耳をすませばあーだとかうーだとか、そんな声が聞こえてきそうな気がするほどだった。
『あのさー』
数秒の沈黙の後ボソリと声が返される。
「は、はい」
『頭おかしーんじゃねーの?とか思われっかもしんねーんだけど……』
歯切れの良かった声が何故だか急に戸惑うような色を含んで。
『一目惚れってあんじゃん?』
「……はぁ」
『あれのさぁ、声バージョンって、あんたありだと思う?』
坂田銀時の、年齢も容姿も新八は知らない。
知っているのは声だけだ。
けれど電話口の向こう側で、困ったように頭を掻き毟っている姿がまるで浮かぶような口調で伺うようにそう言われて。
聞き間違いなんじゃないかと一瞬思う。
だって。
最初に声を好きだと思ったのは自分のほうだったのだから。
そんな都合のいい現実があるわけなどないと思うのが普通ではないだろうか。
「あの……坂田さん?」
『いや、マジ引かれても文句言えねーんだけどさ。あんたと喋ってるとすげー落ち着くって言うかさ……。俺、基本電話は用件のみで切るタイプなんだけど、あんたとは何でもいいから喋ってたいってーか、自分でもこういうの初めてでどうしていいかわかんねーんだよ。でも切りたくねぇってのが正直な気持ちでさ』
「声でわかると思うんですけど……僕、男です……」
新八は震えそうになる声を抑えるように声をくぐもらせた。
それが相手にどう伝わってしまったのか、電話口の坂田の声が焦るように零れ落ちた。
『や、マジでごめん。気持ち悪ぃよな。なんつーか、ホント自分でもパニくってるっつーか、わけわかんねー状況でさ。頼むから切んねーでくれよ』
詫びる声色に胸が痛くなる。
坂田は何一つ悪くない。
新八が携帯を返さないからこうなった。
話していたいと言われて、そんな夢みたいな事があるはずないと、卑屈な気持ちが誤解をさせた。
坂田が詫びるような事など何一つないのだ。
「ち、違うんです……ごめんなさい、謝らないで。僕も、坂田さんと話してると凄く落ち着きます。気持ち悪いなんて、思ってないです」
『マジで?』
「はい。本当のこと言うと、この携帯を拾った日に坂田さんの声を聞いて、凄く……好きな声だって思ったんです。きっと僕の方がおかしいんです」
『いやいやいやいや、おかしい事なんてなんもねーって。これってなんかすげーじゃん。俺ナンパとかした事ねーんだけど、こういう出会いってありなんだなー』
「大袈裟じゃないですか?だって僕達お互いに顔も知らないのに……」
きっとこれは夢だ。
身体の芯で何かが振動しているように、全身が緩やかに震える。
『関係ねーと思うけどなー。だってよ、やっぱ会話とかって人格出んじゃん。ずっと話しててーなとか、ずっと声聞いてたいとかってかなりすげー事だと俺は思うけどね。俺、あんたの空気も好きだもん。ちょっと沈黙があったりする時にさ、あんたから伝わってくる空気感みたいなんがあってさ。それ、すげー気持ちいい』
一週間、ずっと自分のしてしまった事を後悔していた。
それなのに今、好きだと思った声の主が自分の事を好きだと言ってくれている。
こんな都合のいい夢はきっと自分には許されない。
早く覚めなくてはいけないと思った。
「坂田さん……ありがとうございます。僕、あなたにとても酷い事をしてしまったのに……。気持ちだけでも凄く嬉しかったです」
坂田のくれる夢の甘さに浸っている事は、閉じた世界にいるのと同じくらい心地が良いけれど。
この好意に甘えているわけにはいかなかった。
ほんの一瞬でも倖せな夢が見られた、それだけで十分なのだから。
「携帯、駅前の交番に届けます。できる限りのお詫びもするので……」
きっとこんな人に直接会ってしまったら自分の中で何かが変わってしまう。
変わる気がしたから、拾った携帯だったけれど。
結局自分には何の勇気もなかったのだ。
携帯と一緒に、使わせてしまった電話代になるくらいの金額を交番に届けようと思う。
断られたら巡回で留守のタイミングをみてこっそり置いてきてしまえばいいのだ。
卑怯だとは思うけれど、新八にはそんな方法しか思いつかなかった。
『ちょっ、たんまっ。待て待て待て、切んな、切んな、切んなっ』
そう告げた途端、電話口の向こうで坂田の口調が慌てた。
そのあまりの勢いに切ってしまおうと意を決していた新八の指先が鈍る。
その一瞬の躊躇を見透かすように坂田が畳み掛ける。
『頼むから待ってくれって。これ切られちまったら俺、あんたに繋がる方法ないんだよ。頼むから……』
奇しくもそれは。
あの日の新八の感情と同じだった。
繋がっていたい。
そう思って新八が取った行動は正反対のものだったけれど。
「ど……して、ですか。僕のした事は……」
『だーから、関係ねぇって。出会い……っつっても俺達まだ面識ねーけど。ま、何が切欠になるかなんてわかんねーだろ?俺は携帯落としてあんたが拾ってくれて、一週間バックレてくれたからこそ今があるって思ってるし。結果オーライだと思ってんだよ。だからさ、そんなに責任感じねーで欲しいっつーかさ……ってか、悪いと思うならもう少し話、してくれよ、な?』
あくまでも新八を責めようとしない坂田の態度に鼻の奥がつんとして。
「……変な人」
まるで泣き笑いのような声になってしまった。
『変……かもな。自分でもわかんねーんだって。こんなん初めてだしよ。ま、がっついてんなって自覚はあるけどな』
どうしよう、と思う。
凄く嬉しくて。
新八にとっては本当に夢のような出来事なのだ。
怖いと思うのも正直な気持ち。
でも、このまま終わってしまいたくないという気持ちは何よりも強い。
「あの時咄嗟に電話を切ってしまって……ずっとどうしようって思ってました。僕……あなたに甘えすぎじゃないですか……?」
『んなことねぇって。考えてみろよ、俺、あんたの弱みに付け込んでんだけど、わかってる?』
わざと自分を悪者にして。
「優しいんですね」
『はぁ?そんなん初めて言われたし。別に優しかねーよ。姑息なだけ』
素っ気無いけれど、それがかえって照れ隠しを色濃く映して。
「でもやっぱり……」
『駄目……って事?』
「いえ、そうじゃなくて。この携帯、坂田さんのだし、電話代金とか色々ご迷惑かけてるから。ちゃんとお返ししてから改めてって思うんですけど……」
無駄にさせてしまった一週間の事やずっと携帯をかけさせてしまった事、謝らなければいけないことだらけなのだから、やはり甘えてばかりなのは気が引ける。
『なんだよ、もー、吃驚させんなって。あんたの“でも”は心臓に悪ぃよ』
脱力感が伝わってきて思わず笑ってしまった。
『そんなん気にすんなって。あんた俺の携帯持っててくれよ。俺、それにかけるから。多分会うのはまだ構えちまうんだろ?俺は今すぐにでもあんたの顔見てみてーけど、暫くこういう関係でいるのもありだと思うし』
「でも、それじゃお金が……」
『はいはい“でも”はもう禁止。自分の携帯にかける方が安く上がるんだって。俺がしたくてすんだからあんたは気にしなくていいよ。だからもっと声、聞かせてくれよ』
「坂田さん……」
言葉が、詰まりそうになる。
電話口で黙ってしまったら何も意味がないのに。
わかっていても上手く声が出せなかった。
『毎日、ってのは流石にきついけど。また電話すっからさ。あんた何時なら都合がいい?』
終わりにしてしまおうとしていたものが、こうして繋がっていく事が夢みたいで。
「夜、なら……9時以降なら大丈夫です」
『んー、了解。じゃあまたかける』
「あ……」
切れてしまう。
そう思った途端寂しさがよぎる。
携帯を掴む手に力が篭ってしまった。
通話が切れた後、素っ気無い機械の沈黙は寂しさに拍車をかけるから。
聞きたくなくてさっさと通話を切ろうとしたら向こう側からゴソリと音がした。
『あー、クソッ。電話が切れねぇなんて初めてなんですけどっ』
携帯は沈黙せず、新八の耳元に坂田銀時の声を伝える。
まだ切れてはいなかった。
「坂田さん?」
嬉しさと、どうしたんだろうかという疑問と。
新八の気持ちがぐるりと混ざる。
『なんだろなー、この気持ち。あんたと繋がってたくてたまんねぇ』
どうして。
坂田はまるで新八の気持ちを代弁しているかのようだった。
『あんたの事さ、名前で呼んでもいい?』
名前を、この声で呼ばれたら。
自分はどうなってしまうのだろう。
怖いけれど、それは逆らいがたい誘惑だった。
「……どうぞ」
『じゃあ……新八』
坂田の声が自分の名前を綴る。
それだけで、こんなにも身体が震えるのは何故なのか。
耳から入った声は、脳に届くよりも先に胸のどこかに沁み込んだ。
『新八?』
反応しない新八に怪訝そうな坂田の声。
新八はハッとして我に返った。
「ご、ごめんなさい」
『もしかして嫌だった?』
「そんなことないです……嬉しい、です」
『嬉しいって……なにそれ、新八面白れぇ』
「こ、声が凄く好きだから……」
『……新八ってさ、めっちゃ無防備なんだかガードが固いんだか掴めねーキャラな。すげー可愛いんですけど』
「そ、うですか?」
『うん。新八の顔も年も知らねーけど。でもめっちゃ可愛いと思う。すげー思う』
「そんな風にいわれたら、絶対に会えないです……」
自分はそんなにいいものではない。
まるで期待をするような坂田の言葉に、自分に自信のない新八はますます消極的になってしまう。
『俺の目標は新八に会いたいって言わすこと。今決めた。そんで会ったら速攻抱きしめてみたい』
そんな目標ならとっくに達成していると、知っているのは新八だけだ。
切るなと坂田が言ってくれたあの瞬間、新八は完全に捕まってしまった。
話している最中は、ずっとその声に抱きしめられているようで。
会ってしまったらきっと何も拒めない。
だから。
会いたいけれど、会うのは怖い。
まだその勇気はなかった。
『そんじゃ名残惜しいけど切るわ。まだ早いけど、おやすみな』
携帯越し。
相手の顔など見えるはずもないのに。
坂田は確かにそこにいて。
まるで見つめる眼差しがそこにあるような声音だった。
「はい、おやすみなさい」
『あー、あのさ』
「なんですか?」
『名前、呼んでくれよ』
「名前……」
名前といわれればすぐに脳裏に浮かぶ。
一度で覚えてしまった。
頭の中で形にするとそれはとても綺麗な名前だった。
「銀時、さん」
思い切って呼んでみたけれど。
「……ってなんか恥ずかしいです」
下の名前で呼ぶことは何故だかとても倒錯的で、嬉しいような恥ずかしいような複雑な気持ちになる。
『やべーな。かなり破壊力あんのな。けどやっぱ新八の声で呼ばれるとなんつーか……』
坂田の方も何か思うところがあるようだった。
それはなんだか頬が緩んでしまうような感情で。
「坂田さん、じゃ駄目ですか?」
『んー、いいよ。銀時さん、なんて俺もにやけちゃってかなり駄目だし。またそのうち練習しようぜ』
「そうですね」
『そんじゃ今度こそ切るわ。自分がこんなに未練がましい人間だとは知らなかったけどさ。新八、またな』
「坂田さん」
『ん?』
「今度の事、本当にごめんなさい。それから、ありがとうございます」
こんな自分を好きだと言ってくれて。
先があるのかどうか、そんなことはわからないけれど。
それでも出会えたことがただ嬉しかった。
今はまだ声と名前しか知らないけれど。
『そういうのは言いっこなし。どうせなら好きって言ってくれよ』
新八の事を無防備なのか固いのかわからないというけれど。
坂田だって照れ屋なのか気障なのかわからないと新八は思う。
でもそれは少しも嫌な事ではなくて。
きっとどちらも坂田なのだ。
携帯越しだから言える事だってきっとあって。
実際に会ったらそこにはまた違う顔が見えるのかもしれない。
「……好き、です」
それは考えるより先に唇から零れ落ちて。
きっと面と向かったら言えない事も顔が見えないことで勇気が湧くのかもしれなかった。
こんな事を言える自分に新八自身驚いていた。
『……新八、テロリストになれんぜ。俺ぶち抜かれた。すげー会いてぇ』
「それは……」
会いたいと言ってくれる言葉に素直に返せない自分がいる。
“好き”と言える自分は確かに新八の中に存在するのに、どうして会いたいとは言えないのだろう。
『悪ぃ。気にすんなって。俺焦ってねェから。ごめんな』
「違う……謝らないで。僕、坂田さんが好きです。ちゃんと、あなたの顔を見て言える日が来るように頑張りたいです。だから……」
『わかってるって。大丈夫。大体俺達これからだし。今日が初デートみたいなもんなんだぜ?』
「デートって……会ってないじゃないですか」
『そういうのは関係ねーの。気持ちの問題だから』
いわれてみれば納得できるような気もする。
会いたいと、思うけれど。
会ってどこかに行きたいと思うわけではない。
ただ存在を感じているだけで十分すぎるほど満たされる自分がいるのだから。
「そうですね」
『だろ?だから。ゆっくり行こうぜ』
「はい」
『じゃあ今度こそ、三度目の正直って事で。またな』
「はい。おやすみなさい、坂田さん」
『おやすみ。んじゃ』
その声を最後に、今度こそ携帯は沈黙する。
それでも暫くの間新八は携帯を耳に当てたまま動けなかった。
新八しかいない部屋。
ここに新八以外が存在した事はない。
これからも、ずっとそうだと思っていた。
けれど今は。
漂う一抹の寂しさに紛れてそこ彼処に坂田の存在が感じられた。
あの日、まるで自分を呼ぶようだと思ったコール音。
都合のいい勘違いでも構わない。
あの人に、呼ばれたから出会えたのだと思いたかった。
『なぁ、新八っていくつ?』
毎日ではないけれど。
かかってくればいつも10分程度、何気ない会話をして一日を終える。
主に話すのは坂田の方。
新八は聞いている方が多かったけれど、それでも彼がその日の出来事に感じた事を話してくれるだけでも新八には十分だった。
声を聞いているのが好きだったから。
日常の会話は他愛もなくて。
もう何度目になるのかわからない坂田との会話で、深い部分に触れたことはまだ無い。
でもそれは。
聞かれないから言わないだけで、坂田が知りたいというのならば新八は何も隠すつもりはなかった。
ただ、全てを正直に話すことでの反応は怖くもあって。
ほんの僅か躊躇した。
「……26、です」
少しだけ、言い淀む。
『ヘぇ、意外。もっと若いと思ってた』
やっぱり。
もともと年相応に見られることの無い容姿を新八はしていた。
それどころか性別すら。
幼い頃は姉と一緒にいると姉妹と間違われる事も珍しくはなかったほどだ。
顎の線の細い輪郭と黒い大きな瞳はそこら辺の女の子よりよっぽど可愛いらしく、意にそまぬ賛辞を幼い頃から良く受けた。
それもある程度の年齢になれば徐々に減ってはくるけれど、思っていても口には出さず、という程度のものだと思っている。
“学生”という肩書きがあった頃は制服に助けられた。
でもその区分けがなくなってからは判断基準がなくなって、年相応に見られた事は皆無だ。
仕方がないと半ば諦めてはいたけれど、声すらそうなのだと突きつけられた事は新八を思いのほか気落ちさせた。
仕事柄年相応の威厳を持ちたい、というのがここ数年の新八の悩みだからだ。
「そういう坂田さんはおいくつなんですか?」
坂田に年相応に見て貰えなかったことが意外にも悔しくて、声が少し尖ってしまった。
坂田の年齢は推測し難い。
落ち着いた雰囲気を持ってはいるけれど、言葉の端々から自分よりは若いのではないかという気がする。
二十代前半くらいかもしれなかった。
『俺?俺は内緒』
想像が当たるかと思ったらはぐらかされて。
「……ずるい」
『秘密にしといた方が新八、興味もってくれんだろ?坂田さんてどんな人なの~?ってさ。俺言ったじゃん、新八から会いたいって言わすって。これでも無い知恵絞って俺なりに策練ってんだって』
そんな事されなくたってとっくに新八の中は会いたい気持ちで一杯だ。
でも、それを素直に伝えられないのは新八だから非はやっぱり自分にあって。
坂田の気持ちがわかるから、非難する権利は何処にもなかった。
実際ずるいと思う気持ちの向こうでその感情をもう受け入れている。
多分嬉しいとすら、感じているのかもしれない。
坂田が自分の事を思ってしてくれることだという事実がそう思わせるのかもしれなかった。
『新八の秘密は俺のもの。俺の秘密も俺のもの……って感じでよろしく』
どこかのガキ大将みたいな屁理屈を、笑いながら宣言する坂田。
肌が粟立つようなその瞬間の感情を、なんと表現すればいいのだろうか。
独占されたい、そんな誘惑染みた甘い感情。
心臓が動くのがわかる。
「は……」
新八は何かを落ち着かせるように空いた腕で身体を抱きしめた。
『何してる人?』
坂田の声が、肌を撫でる。
「あ……こ、高校で、家庭科を」
ずっと深い眠りの中にあって、多分新八自身忘れていた熱が身体の芯に火を灯そうとしている。
『……高校、教師……何処の高校?』
「銀魂高校」
『……ふーん。家庭科って、男じゃ珍しい気もするけど、新八なら似合ってる感じだよな』
「そ……ですか?」
『うん、雰囲気がすげー柔らけーんだよ、あんたって。ビジュアル知らねーけど違和感無い無い』
「ん……」
襲う熱を必死で堪える。
こんな浅ましい自分を知られたくない。
でも。
上がる心拍数に僅かに呼吸が乱れて。
微かな音が向こう側に流れてしまった。
『新八?もしかして具合悪い?』
気付いた坂田の心配げな声は新八の熱を煽る風になる。
「何でも、ないです……大丈夫……」
身体が熱くなる。
一点に集中しようとする熱を散らすように思考を逃がす。
「……っ」
形になろうとする熱の輪郭を壊してしまいたい。
『新八……おい、新八って』
坂田の声も音にしかならない。
でもその音が坂田のものだから、形にならなくても意味はなかった。
「ごめ……あの、今日はもう……」
後ろめたい気持ちを隠したくて、逃げたくて。
『新八、もしかしてさ……もしかして、感じてん、の?』
「違っ……」
暴かれて、露呈しようとする浅ましさ。
それが紛れもない自分の姿なのに、坂田に知られてしまう事は恐怖でしかなかった。
「違います……何でもない、から……」
悲しくて。
意識しないところで声が震えた。
それに気付いてしまったらもう止まらなかった。
瞳が濡れて鼻を啜る。
懸命に堪えようと思っても、伝わらないようにするのは無理だった。
『泣くなよ……』
声が優しい。
「だって……」
声に感じてしまうなんて。
こんな自分、知られたくはないのに。
新八自身こんな風になってしまった自分に理解が追いついていないのだ。
昔から性的な感情に関しては淡白で、自身で慰めることも稀だった。
それでも現実はこんな風で。
『何で泣いてんだよ。泣くような事、なんもねーじゃん』
侮蔑も軽蔑も。
坂田の声から負の感情は一切感じられない。
それでも、怖い。
「だって……こんなの、変」
熱はぼんやりと、くすぶるように芯を焦がすけれど。
まだ辛うじて引き返せる。
このまま携帯を切って、頭から水を被りたい。
『変じゃないって。本音、言って良い?』
「え……?」
『今すぐ、新八に触りたい』
「や……やだ」
『なんで?』
「あ……ちが、う」
携帯越し、坂田の声が怪訝そうな色になったから、誤解させたかもしれないと新八は焦る。
触れたいと、言われた事が嫌なわけではなかった。
寧ろそれは抗いがたいほどの誘惑。
でも今は考えたくない。
『触りたいとかってやっぱ気持ち悪ぃ?』
「違います……自分が、嫌で」
『何でよ』
「こんなの、恥ずかしいから……」
『俺は、嬉しい』
どうして、坂田の声にはこんなにも感触があるのだろうか。
触れたいと、望んでくれる気持ちがそのまま表れるように新八の肌にそっと触れてくる。
でも嫌だ。
傍に居ないのに、こんな風に欲望を掻き立てられるのは怖くてたまらない。
『新八の声……聞きたい』
まるで脊髄を撫でるような声。
「んっ……」
艶めいたそれに越えたくない場所を越えそうになって。
嫌と駄目を、頭の中で言い聞かせるように繰り返した。
「坂田、さん。お願い……助けて……こんなの、やだ」
新八は床の上、身体を丸めて小さくなる。
まるで懇願するように携帯を握り締めていた。
声は殆ど泣いていたかもしれない。
『新八……悪ぃ。調子に乗りすぎた。大丈夫か?』
助けを請う新八の耳に返ってきたのは、まるで自分が悪いかのような色を含んだ坂田の声だった。
携帯を耳に押し当てたまま幾度も幾度も首を振った。
「僕が、悪いから……こんな、風で……ごめん、なさい」
最初からそうだった。
拾った携帯を返さなかった事も、ずっと電源を切っていた事も、こんな風に心配させてしまう事も。
こんな風に、許されてばかりの自分をどうすればいいのだろうか。
「坂田、さん……」
『んー?』
会いたい……。
心の中ではこんなにも素直に思えるのに。
「坂田さん……」
『大丈夫だって、新八。落ち着いて、な』
「うん……」
震える身体を抱き締めて、縋るように携帯を握る。
吐く息はまだ少し熱いけれど、耳元の坂田の声がまるで髪を撫でてくれるようで。
『何の音?』
「え?」
『今、なんかカチャっていったから』
顔を動かした拍子に当たってしまった眼鏡の音が坂田に伝わったようだ。
「あ、眼鏡が当たって」
『新八、眼鏡かけてんだ』
「はい」
『どんな眼鏡?』
「どんなって……普通、の?」
『はは、普通って何基準だよ』
「だって……」
面白そうに笑われて、新八は困ってしまう。
本当に何の特徴もない眼鏡なのだ。
目が悪い新八は見えればよくて、特にデザインに拘る事もない。
『新八ってすげー素朴なんだろうなって思う。俺、結構勘は鋭い方なんだけど、当たってる?』
「そんなの、自分じゃわかんないです、けど……坂田さんの好みではないとは思い、ます……」
『何でそう思うんだよ』
「なんとなく……」
何も知らないけれど。
会話と行動の印象から感じる坂田は多分新八とは正反対の人間だ。
もっと綺麗で気の利いた女性が似合う人なのだろう、と漠然と思う。
『残念ですが、それは新八君の決める事じゃありませーん』
おどけた様な坂田の口調に思わず笑いが漏れる。
『落ち着いた?』
坂田の見越したような声。
「え?」
突然の問いかけに何の事か一瞬戸惑う。
『身体』
「あ……」
気付けばいつの間にか新八の中の嵐は去っていた。
『なんか会話してたら気が紛れっかなーと思ってさ』
坂田はさらりと言う。
「ありがとう……」
『いーってことよ』
照れ隠しに気取る。
なんだろう、この人は。
携帯越しなのに、怖いくらいの安心感。
新八は床に蹲っていた身体を転がしてそっと脚を伸ばした。
顔が見えないとはいえ人と会話をするのに寝転がるなんて、新八の中では考えられない事だったのに。
坂田が相手だと気持ちが緩んでしまう。
横になって目を閉じて。
そうして声を聞いていると抱き締められているような気持ちになるからかもしれない。
そんな自分に少しだけ顔が熱くなった。
力を抜いてそのまま携帯を枕にするように寝そべると床に置いた自分の携帯が目に入った。
『けど惜しかったなー』
「何がです?」
『未遂だったけどさ、新八の声ってかなりエロいわけよ』
「は?」
『あの耐える感じがすげー腰にクるっつーか。勿体ねー事したかも』
新八の気を紛らわせる為にわざと冗談めかす、本気じゃない、軽い口調。
どうしようもなくこの人が好きだと思う。
声だけなのに。
新八の中で既に“坂田銀時”は形作られていて。
実際に会えばきっと鮮やかに色付くのだろう。
会いたい。
触れたい。
抱き締められたい。
心の中で感情が渦巻く。
けれど、強くそう思うほどに相反する感情も芽生え始める。
会ってしまったら。
触れてしまったら。
抱き締められたら。
やっぱり男なんか駄目だと、正気に戻ってしまうのかもしれない。
「坂田さんは……」
『うん?』
緊張で溜まった唾液をゆっくり飲み込む。
「坂田さんは、男の人が、好きな人なんですか?」
聞いてもいいのかわからない。
でも聞かなければわからない。
曖昧なままでも結局いつかは結果が見えるのだ。
ならば、これで終わってしまうのだとしても仕方がないと思う。
『俺?』
「はい。僕は……小さい頃から、好きになるのは同性ばかりで。それがどういうことなのか、最初はわからなかったけど……」
自分が異端だと気付いてしまったけれど、誰にも聞けなくて、言えなくて。
「自分が女の人を好きになれないってわかってるけど。怖くてまだ誰かと付き合ったりしたことないんです。だから坂田さんとこんな風になれて、嬉しいんですけど怖いって言うか……。会って坂田さんが正気に返っちゃったらどうしようとか……」
支離滅裂で自分でもよくわからない。
でも正直な気持ちを伝えたい。
だから、自分の中にある精一杯を言葉にした。
『過去にそういう経験は無ぇけどさ。なに、新八は実際に会ったら男だってのを目の当たりにして俺が引く、とか思ってるわけ?』
「だって……坂田さん、やっぱり普通に女の人が好きなんじゃないですか?」
『そんなんわかんねーじゃん。100%ノン気の男はいねぇってなんかで聞いたことあるしさ、もしかしたら出会ってないだけかもしんねーだろ?だいたい俺、声だけで新八に堕ちてんだぜ?そっちのがヤバくね?』
「でも……」
『俺だって初体験です。勝手もわかんねーしさ。けど新八の声聞いて好きになったし、たくさん話しても好きになるばっかだし、会いたいし……思い切りぎゅーってしてぇし。俺の正直な気持ちはそれだけだから』
何の迷いも無いわけではない。
坂田自身もきっと戸惑っているのだ。
それでも。
『交換日記から始まる関係もありゃ身体から、って場合もあるし。きっかけなんて何処にでも転がってるだろ。大事なのはその後。一歩踏み出してみなきゃ何にも始まんねーしな』
坂田の声が、強く強く新八を前へと導く。
『新八が怖いと思うなら、怖くなくなるまでこうしてようぜ』
新八の覚悟が決まるまで、坂田はこの声だけの関係で良いと言う。
何を返せばいいのか分からなくて。
この人に。
せめて自分の正直な気持ちで応えたいと、新八は心から思った。
「坂田さん。僕の携帯の番号、覚えてくれますか?」
この携帯をきちんと返して。
そうして改めて“坂田銀時”と出会いたい。
「あなたに、会いたいです」
『……マジで?』
「うん……マジで」
坂田の口調を真似てみた。
『ははは、新八似合わねーな』
「そうですか?」
『うん。新八の、綺麗な喋り方がすげー好き』
昔から、馬鹿丁寧だとか真面目だとか……だから面白くないだとか。
そんなことばかり言われてきたから。
声が優しくて、つい泣きそうになってしまった。
「早く坂田さんに、会いたいです」
『新八どうしちゃったの』
「わかんない、です……」
坂田の声に触れられて、坂田の言葉に抱き締められて。
怖かったのが嘘みたいに、ただ想いは募るばかりで。
まるで箍が外れてしまったようだった。
「坂田さんが、好きです」
実際に会った時に口にできる自信は無いけれど、今ならこんなにもはっきりと伝えられる。
『決めた』
「会う場所ですか?」
『んにゃ、ちゃう。会ったらする事』
「携帯を渡すんじゃないんですか?」
『そんなんどうでもいいって。いいか、新八に会ったら速攻抱き締めてキスすっから。ぜってーするって決めたから』
否は許さない。
そんな意思を感じる一方的な取り決めだったけれど。
きっともう自分はおかしくなっているのだと新八は思った。
だって。
「して、ください……」
こんな事が言えるなんて。
『ちょ、新八天然?それやべーんだけどっ、マジ勘弁。あー……ったく』
「……ごめんなさい」
電話口で坂田があまりにも唸るのでなんとなく謝っておく。
『新八自業自得だかんな』
「何がです?」
『俺今日お前でヌく』
言われた瞬間は、意味がわからなかった。
時間とともに理解が追いついて。
「なっ……ぼ、僕の顔も知らないじゃないですかっ」
『関係ないね。声だけで十分。大体新八に「してください」なんて言われたら勃つっつーの』
何も隠さない坂田の欲望は明け透けで。
恥ずかしがっている自分の方がだんだん馬鹿みたいに思えてくる。
第一、声で感じてしまったのは自分の方が先なのだ。
あえてそれに触れない坂田。
そんなさり気無さも大好きで。
もう、彼に全てを明け渡してしまいたかった。
「……坂田さんのえっち」
新八の言葉に携帯の向こうで坂田が吹き出した。
『ホント、新八って素朴な。それって死語じゃね?生で初めて聞いた。でもあんたが言うとめちゃくちゃ可愛い』
「ありがとうございます」
『そういうとことか、すげー好き。早く会いてぇな』
「……うん」
『場所、決めようぜ。俺ん家、かぶき町の万事通りなんだけど』
「僕、恒道館前のバス停から歩いて五分なんです」
『なにそれ、俺達同じ町内なわけ?もしかして何気に運命的?』
「偶然じゃないですか?」
『新八は夢がねぇなー』
帰り道で拾ったのだから同じ町内に住んでいたという事実はそれほど驚くような事ではないのかもしれない。
町内とはいえ驚くほど行動範囲の狭い新八が偶然坂田とすれ違っている可能性もほぼ0に近いだろう。
それでも。
あの日新八が坂田の携帯を拾った事は確かな偶然なのだ。
その偶然が綺麗な軌跡を描いて坂田に繋がった。
それが本当に運命だったらいいのにと。
ほんの少しだけ期待する事は新八の心をほんのりと温めた。
『ま、俺も運命とか信じてねーけど、新八に会えた事はめっちゃ感謝してる』
「神様とかですか?」
『さぁ……でも目に見えない何かはどっかにあんじゃねーかと思うからさ』
新八にとってのその“何か”はきっと携帯の向こうにいるのだと思うけれど。
『んじゃさ、デニースにしようぜ』
「どこですか、それ」
『は?』
「そのお店、知らないです」
『マジで?新八何処のお姫様だよ』
呆れたような坂田の声に何も言えなかった。
新八が唯一行く店といえば帰り道にある大江戸マートのみだ。
日用品から雑貨まで揃うので、新八一人に必要なものは全てそこで揃ってしまうから不自由はなかった。
「僕、自分の住んでるところなのに殆ど知らないんです。ごめんなさい」
知らなくても、困らなかったから。
知ろうと思ったこともなかった。
『いいよ、んじゃ今度一緒に行こうな。新八ってまったり和み系だな。今度膝枕してくれよ』
「いいですけど……呆れないですか?僕の事」
『別に。知らない事は知ってけば良いだけだろ?教える楽しみもあるしさ』
坂田の言う“教える”はきっといろんな意味を含んでいたけれど、新八の胸にはただ甘く響くだけだった。
繰り返す毎日はずっと日々を消費するばかりだったけれど、これからはもう違う。
明日が来るのが楽しみだなんて初めて思った。
「僕、坂田さんに会えてよかっ」
最後まで言い切る前に、被さるように非情な機会音が声を遮る。
伝えたかった言葉は届かず消えた。
呆然と、プツリと切れた携帯を見る。
「うそ……」
無情にも携帯の充電は切れていた。
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