「先生、せーんせってば」
耳元でやや甲高い女の子の声がして新八はぼんやりと飛ばしていた意識を戻す。
すぐ傍にはステンレスのボールと泡だて器を持った女生徒が立っていた。
それはさながら剣と盾の様で、纏う可愛いキャラクターデザインのエプロンはさしずめ鎧だろうか。
「ごめん、なんだった?」
「もー、ごめんじゃないってば。材料ちゃんと混ぜたよ、次どうすんの?」
銀魂高校調理室。
放課後のこの時間は週に三回程度新八が顧問を務める料理倶楽部の活動が行われている。
概ね和やかな雰囲気が漂う倶楽部なのだが、今日は些か空気が殺気立っていた。
ボールの中にはココア色の生地。
今日のレシピはガトーショコラ。
折しも時期は二月。
今日の生徒達は全員戦闘体勢を整えていた。
「決戦の日までもう時間が無いんだよ。ぼんやりしてないでさ、ちゃんと作り方指導してよねー。あたしらの明日は先生にかかってんだから」
「大袈裟だなぁ」
「何言ってんの、女の子にとっての一大イベントなんだから。あ、ちゃんと先生にもあげるからね」
「練習したやつでしょ?」
「わかった?」
「そりゃね……材料は全部混ぜたんだよね。そしたら……」
立ち上がった新八は気を取り直して生徒達に指導を始めた。
好きな人に想いを伝える為の年に一度の特別な日。
彼女達の一生懸命で真っ直ぐな気持ちは端で見ていてもとても微笑ましい。
気持ちを伝えたい。
それはきっと今迄の新八には分からなかった感情。
でも今は違う。
彼女達の気持ちは自分の事のように分かる。
坂田に伝えたかった新八の気持ちは昨日、充電切れとともに遮られてしまった。
それからずっと頭の中を坂田の事が占めている。
「そうだ。ねぇセンセ、あたし3Zなんだけど。うちのクラスの坂田君って知ってる?」
型に生地を流し込みながら思い出した、というように生徒が尋ねる。
“銀時”なら兎も角“坂田”なんてそう珍しい名前ではないし三年生なら年齢も十八くらいだろう。
新八の知る坂田のはずは無い。
そう思いはしても同じ名だというだけで胸が鳴った。
「知らないけど……何かあるの?」
「この前、先生の事聞かれたの」
「僕の?」
「そう。坂田君てすっごいカッコいいんだけど。甘いものに目がなくて、そのギャップがまたいいんだけどさー」
「あー、坂田君たまにお菓子食べてるよねっ。私飴くわえてふらふらしてる時にすれ違っちゃった。もーすんごいドキドキした~」
「うっそ、いいなー」
新八の質問に対する応えは入る相槌にどんどん侵食されて、ものの見事に脱線を始める。
「あの……坂田君がどうしたの?」
「あー先生ごめん。や、どうしたって訳じゃないけどさ。私が料理倶楽部で先生が顧問だって教えてあげたら倶楽部はいつだって聞かれたからさ。甘いもの好きだし、きてくれるのかなーって思ったのー」
「坂田君、試食専門で入部してくれたらいいのにねー」
「だよねー」
「そうなったらあたし俄然張り切っちゃうなー」
「あたしも」
その名が出た途端に室内はなんだか花が飛んでいるようだった。
「もしかして、みんなその坂田君にケーキあげたいんだ?」
「やー、先生図星~。だから。絶対に失敗したくないの。ちゃんと教えてよね」
「はいはい。でも一番大事なのは気持ちだから。きっと美味しくできるよ」
「だったら良いけどな」
女の子達の素直な淡い恋心。
自分の坂田に対する気持ちもこんな風に綺麗に見えたら良いのに。
オーブンに入れた生地に熱が入り始めると途端、室内は甘い香りに包まれる。
その甘さはまるで坂田と会話をしている時のようで。
新八は焼きあがるまでじっとその香りに包まれていた。
一人きりになった調理室。
人気の無い空間には新八と、ケーキの甘い香りだけが残っている。
流しの前に立ち、スポンジを手に取る。
山積みになった調理器具。
今日の活動の、彼女達の夢の残骸。
『みんな、今日は片付けしないで帰っていいよ』
『うそっ、なんで?』
『今日のケーキは練習だけど、早くその成果を誰かに見てもらいたいでしょ?だから今日だけ特別。片付けは先生がやっておくから』
『ホントに?』
『うん、いいよ』
『先生、ありがとっ。大好き』
『あはは。その代わり、本番のケーキはちゃんと気持ちを込めて一生懸命作ってね』
『もっちろん』
『先生ありがと。またね』
『先生にもちゃんとあげるからー』
『楽しみにしてる』
『じゃあねー』
弾むような少女らの足取りを思い出して新八の口元は自然と綻んだ。
一つ一つの器具を丁寧に洗い上げていく。
誰かの為に何かをしたい。
彼女達を見ていると、そんな感情が胸の中に自然と湧き上がる
“坂田銀時”を探そうと思う。
同じ町内に住んでいるのだとわかっただけでも大きな手がかりだ。
ましてやこんな特徴のある名前なら普通よりも見つけやすいかもしれない。
こんな前向きな気持ちになるのは生まれて初めてかもしれない。
慣れない感情をまだ少し持て余し気味にして、新八は洗い物の手を早めた。
一部洗った器具を濯ぎ籠に伏せると空いたスペースで次の洗い物に手を付け始める。
窓の外は薄っすらとした夕闇。
ここは中庭に面しているから直接は見えない。
けれど、まだ活動しているらしい運動部の掛け声だけがざわりざわりと流れ込む。
校内に感じる人の気配。
今までそんな事を気にしたことはなかったけれど。
誰かがそこにいる気配を感じることは倖せな事なのだと、新八は初めて気がついた。
背を向けた廊下側から足音がする。
きっと帰宅を急ぐ生徒のものだろう。
聞くともなくその音を無意識に追っていたら何故かこの部屋の前で途切れた。
なんだろうと振り向く前に扉が開いて。
「志村せーんせ」
聞こえた声に、動けなくなってしまった。
嘘だと思った。
信じられない。
だって、背中から聞こえた声はいつも携帯の向こうから聞こえてきた声。
そんな事あるわけが無い。
現実に思考が追いつけなくて。
泡だらけのスポンジを持ったまま、新八の頭の中も泡のように真っ白になった。
二度目に聞こえたのは扉を閉めた音。
ゆっくりと響くのは一歩一歩近付く音。
耳から聞こえる音を順に考える事で新八は懸命に落ち着こうとした。
近付いた足音がぴたりと止まって、どうしようもないくらいに気配を感じる。
次の瞬間、脇からするりと腕が伸びて。
「志村新八、捕まえた」
腰をぎゅっと抱き締められた。
くん、と匂いを嗅ぐ気配。
「良い匂い。今日はチョコのお菓子?」
声は新八の頭上から。
背後の人物の背は新八より頭一つ分ほど高いらしかった。
「新八、何にも言ってくんねーの?」
言葉を発するどころか動く事すらままならない新八に痺れを切らしたように声がかかる。
でも僅かに面白そうな色も含んで。
「う、そ……だって、坂田……さん……」
「嘘じゃねーよ。俺は坂田銀時。あんた志村新八だろ?」
口調も声も。
携帯で話す坂田の物と何も変わらない。
でもまだ信じられなかった。
だって。
年下のような気はしていたけれど。
まさか自分の働く学校の、しかも生徒だったなんて。
「新八すげー。俺の腕にジャストフィットなんですけど」
一瞬抱く腕が強くなって、首筋でチュっと音がした。
「新八、チョコの匂いする」
坂田の手が固まった新八の手からスポンジを取り上げて蛇口を捻る。
泡にまみれた新八の手を取ると、自分の手ごと流れる水にそっと晒した。
手の甲を覆う坂田の手は新八よりも大きい。
指の間にそっと割り込まれ、水に流れる泡と相まって新八の肌を粟立てた。
「新八、ちっちぇーのな」
親指がそっと皮膚を撫でる。
冷たい水と温かい肌。
その狭間で新八は溶けてしまいそうだった。
キュッという音がして水が止まる。
台の上に置いてあったタオルを取って、坂田の手が丁寧に水を拭いてくれた。
もう一度、強く抱き締められて。
「ど、して……?」
やっとの事で声になったのはそれだけ。
「わかんねー?」
「う、ん」
「単純明快だよ。新八、ここで家庭科教師やってるって教えてくれたじゃん」
「それで?」
では新八の職業を知った時に既にわかっていたということだろうか。
そう尋ねたら。
「残念ながら。男子に家庭科って縁がねーじゃん?だから悔しいけど今まで新八の存在知らなかったんだよ。そんで女子に聞いた」
では、今日の実習中に聞かされたあの“坂田君”は本当に携帯の“坂田”だったということなのだ。
こんな事が本当にあるなんて。
自分の身に起こっている今でさえまだ半信半疑だ。
「三年間同じ学校に存在してて、今まで会った事無いなんてさ、それはそれで奇跡だよな」
新八は家庭科の非常勤講師という形で働いていたから尚更かもしれなかった。
あんなに悩んでいた一週間の間ですら、新八と坂田は同じ空間に存在していたのだ。
灯台下暗し、とはこういう事なのだろうか。
あまりにも滑稽で、新八は笑い出したくなってしまった。
「笑ってんの?」
腕の中でくすくす笑い出した新八を坂田が覗き込む気配。
「だって……自分が凄く間抜けに思えて」
いつも下ばかり向いていたから。
手を伸ばしたら届く場所にいてくれたのに。
「そんな事ねぇって。あん時新八が俺の携帯拾ってくれなきゃ俺だって新八の事知らないまま卒業してたと思うし。今それを思うとゾッとする。だから、これで良かったんだって」
「う、ん」
頑張って坂田の事を見つけようと思ったのに、こんな風に見つけてもらえるなんて。
「なぁ新八、顔見せて」
耳元で囁くような坂田の懇願。
いつもいつも、携帯越しに新八を抱き締めてくれた声。
今は声とともに温もりがある。
あの日からずっと、覚めない夢を見ているようだった。
腕が解かれて。
でもその後は新八の意志に委ねられる。
新八は一つ深呼吸をしてくるりと身体を反転させた。
下に逃がした視線の先に金のボタン。
一つ、二つと辿っていくと学生服の黒い生地がなくなって、着崩したシャツの間にちらりと肌が見えた。
慌てて逸らすと“坂田”の名札。
ゆっくりゆっくり、緊張しながら視線を上げていく。
開いた首元から覗く鎖骨を通って首を辿る。
隆起した喉仏は意外にも完成された男性のもので新八をドキリとさせた。
引き締まった顎と頬の線を更に上がると鼻筋の通った整った顔立ちが目の前にあった。
少し眠そうな目とゆるい眉毛が何処となく暢気さを感じさせる。
輪郭を縁取る髪はとても綺麗な銀色で。
染めているのか天性なのか、うるさげに跳ねたそれはどちらにしても坂田にとてもよく似合っていた。
初めて、視線が合った。
「初めまして、志村先生」
「初めまして……坂田、さん?」
ずっとそう呼んでいたから、今更変えるのもどうだろうかと思うけれど。
「何でもいいよ。好きなように呼んで」
「じ、じゃあ……坂田君」
「あ、それ何かエロい」
「何でっ」
「や、なんとなく」
「なんとなくって……わっ」
坂田の手が脇に入ってひょいと身体が持ち上がる。
何を思う時間もなくて、あっという間に流しの淵に座らされてしまった。
その両脇に手をついて、笑う顔が少し近付く。
いきなりの事につい怯む。
「あっ」
その弾みでバランスが崩れた。
ぐらりとしたその瞬間、咄嗟に坂田にしがみついてしまった。
「新八、想像以上に可愛い。眼鏡も可愛い」
しがみついた新八の腕を自分の首に回させて、坂田は再び流しの淵で新八を挟むように手をつく。
「そりゃ年上には見えないだろうけど……」
導かれた腕に少しだけ戸惑いながらも新八はそのまま抱きついていた。
恥ずかしいからできる限り腕の距離はとった。
「気にしてんの?」
「だってやっぱり教師だし……」
「そういうとこが可愛いんだと思うけど?」
面白そうに坂田がいう。
「天からの贈り物だと思ってさ。可愛いんだからそれを武器にすりゃ良いじゃん。俺は悩殺されたけどね」
「本当に?」
「本当です。可愛いだけで世の中渡っていけるかもよ?」
「そんなわけ、無いでしょ」
坂田のいうことがあんまりおかしくて。
二人で顔を見合わせて笑った。
悩みだった顔の事も、坂田の前では取るに足らない小さな事になってしまう。
「なぁ」
坂田がぐいっと身を乗り出す。
「は……いっ?」
斜めにされた新八は、咄嗟にしがみつく腕を縮めてしまった。
ぎゅっと抱きつく形になる。
思っていたよりもずっと逞しい肩幅にドキッとした。
「していい?」
「えっ?」
「キス」
坂田の声は耳元で。
昨日の宣言は、会ったら抱き締めてキス。
有無を言わせぬ口ぶりだったのに、現実はこんなに優しくて。
あくまでも新八の意思を尊重してくれる。
新八はしがみついていた腕の力を弛めた。
目の前には坂田の顔。
断られる事は考えていない自信に満ちたその表情は微かな笑みを湛えている。
優しいけれど自信家で。
それが少しだけ癪に障るけど。
きっと新八の負けだから。
「キスして、坂田君」
素直に坂田に陥落する。
「志村センセ、めっちゃエロいんですけど」
こつんとおでこを当てられて、途端に頬が熱くなった。
「……坂田君のせいだもん」
「……二十六の台詞じゃねーよ、可愛すぎ」
顎を上げられて、ソロリと唇を舐められた。
唇が幾度も触れては離れる。
顔に添えられた手の、指先がさわさわと肌を擽る。
五度目に唇が触れた時、その一本が項を滑った。
「ん……ぅ」
弾みで緩んだ唇から、そっと舌が忍び込む。
ぬるりとした感触が入り口の粘膜をゆっくりなぞる。
確かめながらの優しい侵入に新八の頬を涙が伝った。
気付いた坂田の長い指が目尻からそっと拭ってくれる。
「何の涙?」
問われても、明確には答えられない。
堪えきれない感情が溢れ出たものだから。
「きっと嬉し泣き」
例えるのなら多分そう。
「ヤなんじゃなくて?」
「うん」
嫌なわけなどあるはずがなかった。
「ならもっとしていーの?」
鼻先をつけて軽いキス。
「う、ん」
「もっといっぱい、舐めていい?」
「うん……いい、よ」
撫でる指先が髪をかきあげ額を晒す。
露になったそこに唇が押し当てられた。
坂田の片腕が、新八を改めて支えるようにしっかりと腰に回される。
もう片方の腕はすっとどこかに行って戻ってくる。
「新八、これ」
人差し指がピトリと唇に触れる。
そこには何かが付いていて、舌先をそっと伸ばしたら甘かった。
今日の実習のチョコレート生地だ。
新八が台にしている流しの中にまだ洗っていないボールがあった。
坂田の指先がそこから掬ってきたのだろう。
「新八の事いっぱい舐めたいけど、舐めても欲しい」
意図する所を汲みたいような、汲みたくないような。
ただ、嫌悪感は全くなかったから羞恥心を押し殺す。
「坂田君、本当に十八歳?」
今時の高校生ならもしかしたら当たり前なのかもしれないけれど、新八の感覚ではついていけない。
「さぁね。留年しまくってるおっさんかもよ」
「……いじわる」
はぐらかす坂田の顔を一度だけちらりと見て、新八は意を決して唇を開いた。
ゆっくりと坂田の指を迎え入れる。
分からないなりに、できるだけ丁寧に舌を使ってチョコを舐め取った。
時々坂田の指が遊ぶから、戯れるように絡めてみる。
指の腹で撫でられると、それだけで感じてしまいそうだった。
「新八、やべー。ドクターストップ」
「ん……」
指が抜かれた。
名残惜しくて少しだけ、目で追ってしまう。
「俺のリサーチではさ」
外れてしまった腕をまた首に戻させて、坂田は新八の腰を抱く。
「志村先生は真面目でお堅いちょっと地味目な可愛い先生、だったんだけど」
真面目でお堅いは兎も角、地味目と聞いて少し凹む。
「電話でも思ったけど、新八マジ天然でエロいな」
そう言われても自覚はなかった。
「リサーチ結果からすると普段は真面目なわけだろ?好きな相手だとそんな無防備なわけ?」
「わかんないよ。だって、こんなことするの坂田君が初めてだもん」
好きになった人ならいたけれど、それはいつも淡いままで終わってしまった。
形にしてはいけないと、ずっと思っていたから。
だから新八には色恋の経験は何一つなかった。
「付き合ったこと無いって言ってたけど、マジでキスも初めてだったって事?」
「うん。えっと……引く、かな……」
この年になるまで何も知らないなんて、やはり気持ちが悪いだろうか。
「や、引くわけねーつか、嬉しいっつーか……男の心理とか分かる?」
「なんとなくは。でも……僕みたいなのでも、嬉しい?」
女性相手であれば、その人にとっての初めての男が自分であるという事は嬉しい事実なのかもしれない。
でも男である自分にもそれは当てはまるのだろうか。
「愚問」
「ホントに?」
「っとに心配性だな。俺を信じろって。全部教えてやるって言ったろ?……まぁ男同士はよくわかんねーけど気合でなんとか」
「気合って……」
「気合は愛も含んでっから大丈夫」
この自信は何処から来るのか。
でもどうしてか、信じられるから不思議だった。
「甘い」
唇に残っていたチョコレートを坂田の舌が舐め取った。
「坂田君、甘いもの好きなんだっけ」
「だけど。何で知ってんの?」
「坂田君、僕の事聞いたでしょ。偶然今日倶楽部の女の子からその話が出たんだよ」
甘いものが好きで、ちょっと近寄りがたいけど、かっこいい。
新八が今日知った坂田銀時。
「倶楽部の女の子、みんな君にケーキあげるんだって言ってたよ。もてるんだね」
本当に倖せそうに話していた彼女達を思い出して少しだけ胸が痛む。
あの時は、同一人物だとは思ってもいなかったから。
「新八が嫌なら断るけど?」
「いいって言ったら貰うの?」
「そりゃ。ただで甘いもん食えんだぜ?俺毎年貰ってるもん」
坂田にチョコをあげたい女生徒ならきっとたくさんいるだろう。
「妬ける?」
「……わかんない。だって、その子達の気持ちも分かるし」
新八は、坂田にあげるのだと頑張っていた彼女達の姿を知っている。
だから。
「俺さ、本命はぜってー断ってるよ。ちゃんとわかってる相手からしか貰わない。でも、新八が嫌なら断るから」
彼女達は高校生活の中でずっと坂田を見てきたのだ。
その気持ちを無碍にする権利が新八にあるはずもなかった。
「あの子たち、坂田君にあげるんだって凄く頑張ってたから……ちゃんと貰ってあげて」
「新八、変なとこできちんと大人なんだもんな」
「別に大人じゃないよ。卒業したら絶対に嫌だもん」
「じゃあ今年が最後な。勿論本命は断るって事で。けど、本気の本命はちゃんとくれるんだろ?」
「……うん」
「つっても、もう貰っちまったようなもんだけどな」
したり顔で坂田はにやりと笑うけれど、新八に思い当たる節は無い。
坂田に会うのは今日が初めてなのだ。
訳が分からずきょとんとしていると顔が近付いて。
またキスをされた。
ゆっくりと舌を辿られてそっと唇が離れると息が触れる距離で教えてくれた。
「チョコ味の新八、ご馳走様」
思い出して。
言われるままにした事が実はとても恥ずかしい事だったような気がして思わず口元を押さえてしまった。
「……坂田君って恥ずかしい」
「志村先生がエロいからしょうがないでーす」
押さえたまま、もごもごと文句を言えば屁理屈が返る。
「そんなこと無いっ」
涙目になって怒ったら。
「ホラ、エロ可愛いし」
逆効果だった。
何を言っても言い負かされるばっかりで。
自分の方が年上なのに、何一つ勝てる事がない。
なのに悔しいと思わないのはどうしてだろう。
空気を震わせるようにチャイムが鳴り響く。
電気がついていたから気付かなかったけれど、見ればいつの間にか窓の外は真っ暗だった。
「片付けて早く帰らないと」
後片付けはいいからと引き受けた洗い物はまだ途中だった。
「もう七時じゃん。半分俺の所為だな、ごめん。手伝う」
坂田はそう言って新八を流しの淵から解放するともう一度後ろから抱き締めた。
「これでどうやって手伝うの?」
背中にぴたりとくっつかれ、それでも新八は無駄なく手を動かした。
「背中温め係です。あと応援団。新八ファイト」
「……バカ」
口ではふざけていた坂田だけれど、実際はちゃんと手伝ってくれた。
新八が洗ったものを順に濯いでくれたおかげで思いの外片付けは早く終了した。
「ありがとう」
お礼にと、最初とは逆に今度は新八が坂田の濡れた手をタオルで拭く。
水分が取れると坂田の手はそのまま新八の腹の前で組みなおされた。
ぎゅっと抱き締められて背中から伝わる温もりが肌を通して体内に沁み込む。
静まり返った校内で、新八は自分の心臓の音が耳に届きそうだと思った。
「坂田君。僕、今日はずっと夢を見てるみたいで……本当はまだ信じられない。明日になったら元に戻るんじゃないかって……」
「そんなん俺が許さねぇから。やっと捕まえたんだぜ?今更離せるかよ。新八はもう俺のモン」
力強い坂田の声。
浚うほど激しくはない、優しく奪うような強引さに新八はどうしようもなく惹きつけられる。
「もしあの時携帯に出た新八がさ、どっかの交番に預けとくから取りに行って下さいねーって切っちまったら今の俺達は無かったわけじゃん?」
自分の行動が正しかったかどうかは未だに分からないけれど。
坂田の言うとおり、正しい判断をしていたらきっとお互いに存在を知る事はなかっただろう。
「だから俺は、今新八が腕の中にいるのがすげー嬉しい」
そう言って、坂田は顔を新八の肩口に伏せた。
いつも強気な彼の声がほんの僅かに揺れた気がして。
新八は閉じ込められた腕の中でゆっくりと身体を回転させた。
伏せた坂田の顔は上がらないまま。
少し上にあるそれに新八はそっと手を伸ばす。
頬を包むように手のひらを当て瞳を見つめる。
坂田のそれはまるで今日のチョコレートのような甘い色をしていた。
「急にどうしたの?」
さっきまであんなに強気だったのに。
「んー、さっきもしもの話、しただろ?」
「うん……」
頬に触れる新八の手のひらを上から包み込むように坂田の手のひらが被さる。
「あれですげー悲しい妄想が暴走した」
ばつが悪そうに告白するその表情は年相応に十代で。
坂田は不本意かもしれないけれど、新八は可愛いと思ってしまった。
「強気なくせに変なとこ弱気なんだね」
「俺、実はハッタリのヘタレなんだよねー」
「ホントに?」
「さて、どうでしょう。それは付き合ってのお楽しみ」
「もうっ」
しおらしかったのはほんの一瞬で。
目の前で軽口を叩く彼は、もういつもの坂田だった。
冗談でかわされてしまったけれど。
僅かに見せた寂しい顔は間違いなく彼の中にある本当なのだ。
だからもっと坂田の事を知りたかった。
「坂田君、これ」
新八はズボンのポケットから取り出したものを坂田に渡した。
「俺の携帯……」
「昨日充電が切れちゃって、どうしようと思ったんだけど……でも、同じ町内に住んでるってわかったから頑張って探そうと思ったんだ。それで、お守り代わりにと思って今日持ってきてたから」
考えてみればこれのおかげで坂田に出会えたのだし、今日こんな風に出会えたのもこの携帯のお守りの効果なのかもしれないのだ。
馬鹿げてはいるけれど、新八にとってご利益のある携帯であることは確かだった。
そう考えるとその持ち主である坂田は新八にとって神様になるのだろうか。
自分の想像につい笑いがこみ上げてしまった。
その神様は、と思って窺い見れば、渡した携帯を見つめたままなんとも不思議な顔をしていた。
「もしかして、壊しちゃった?」
疎い新八は自分の機種とは違う坂田の携帯の扱い方がよく分からずに変なボタンを押してしまった事が幾度かあった。
だから少し不安になる。
「ん?大丈夫」
「じゃあどうしたの?」
「充電器、買えばよかったのに、って思って」
「え?」
「充電切れそうになったら、コンビ二で売ってる充電器で応急処置できるじゃん」
常識のようにさらりと言われた。
坂田が言うには外出先などで困った時の為に携帯電話の簡易充電器があるらしいのだ。
「だって、そんな事知らなかったから……」
充電が切れた瞬間、この世の終わりみたいに一瞬絶望してしまったのに。
蓋を開けたら笑い話になってしまった。
「新八、反則技連発しすぎ。マジで俺会えてよかったわ」
世間知らずだという自覚はあったけれど。
あまりに恥ずかしくて下を向いてしまった。
その顔を上げさせて坂田が額をくっつける。
「俺は、新八がこんなに綺麗なままでいてくれてすげー嬉しい。俺に会う為にそうしてくれたって、キモいかもしんねーけど思ってる」
頬を包まれて何度も触れるキスをする。
初めて会ったのに。
今日だけでもう何度キスを交わしたか知れなかった。
交わすキスと抱き締める腕。
新八に触れる確かな温度。
でも。
一番新八の心に触れるのは。
「坂田君の、声が好き」
首筋にぎゅっと抱きついて耳元で囁いた。
「声だけ?」
坂田の声もやっぱり耳元で、不本意そうに零される。
「全部好き。だけど最初に好きになったから、一番好きなのはやっぱり声」
少し低くて、少し甘い。
年のわりには落ち着いたトーン。
いつも、携帯の向こうから新八に触れてくれた声。
「坂田君」
「ん?」
「名前、呼んで」
「新八」
携帯越しに触れてくれる坂田の声はいつも近くて遠かった。
「もう一回、呼んで」
「新八」
今温もりに抱き締められて。
こんな近くで呼んでもらえる、ずっと焦がれた声。
これが奇跡でなくてなんだというのか。
「もっと、ずっと、呼んで……」
目を閉じて、坂田銀時を全身で感じる。
触れる体温で肌が、流れ込む声で脳が。
ドロドロとまるでチョコレートのように溶けていきそうになる。
二人で、このまま混ざり合って一つになれたらどんなに倖せだろうか。
「新八」
「ん……?」
まるで酔ってしまったような新八を、酔わせた原因が引き戻す。
「この部屋もそうだけどさ」
「うん」
「新八、チョコのすげー甘い匂いがしてさ。今とかめちゃくちゃトロトロじゃん?」
「だって……坂田君の所為で溶けそうだもん」
坂田がゆっくりと新八の身体を導いて。
「俺、言うほど大人じゃねーからさ。新八の事、すげー欲しくてたまんねーんだけど」
机の上に持ち上げられて、そっと台に倒される。
覆い被さる坂田の指がゆっくりと新八のシャツを開いた。
携帯越しの、声に感じてしまったあの時は実際に触れてもらえない事が嫌で怖くて泣いた。
けれど今は。
「前の電話の時さ、新八すげー色っぽくて。すぐにでも抱き締めたかったけどできなくて」
坂田の指が鎖骨を辿って開いたシャツを肩から落とす。
「ずっとあんたの事抱き締めたかった」
「坂田君……」
腕を伸ばして引き寄せる。
近付いた坂田は優しいキスをくれた。
舌が絡んで頭の奥が痺れるように熱い。
間近で見つめるチョコレート色の甘い瞳。
耳に流れ込む少し苦くて甘い声。
そしてそれを溶かすような熱い体温。
全てが甘いこの部屋で坂田のそれに包まれて。
新八はまるで湯銭にかけられたチョコのように緩やかに溶けていく。
触れる傍から溶け出してしまう際限の無い快楽の中、新八の形はなくなっていく。
唯一つ。
坂田銀時だけが確かな形を持って新八の中にあって。
新八は溶けていく自我を繋ぎとめるように、身体の中でその形を感じていた。
「新八」
耳元で声がする。
「新八、平気か?」
ずっと携帯越しに聞いていた声。
今はすぐ傍で。
触れる距離から聞こえてくる。
「ちょっと無理しすぎたかもな。ごめんな」
壁に凭れた坂田の膝に新八は横抱きにされている。
少し腰はだるいけれど、想像していたような痛みはなかった。
「新八すげー良くてさ、一回で我慢しようと思ったんだけど……無理だった」
「坂田君のえっち」
「それは褒め言葉だと思っとく」
触れるだけのキスをして、新八は坂田の胸にそっと凭れた。
あの日拾った携帯がきっかけで初めて声が繋がって。
会話を続けるうちに心が繋がった。
そうして今日、身体まで繋がって。
「僕達、もう全部繋がっちゃったね」
「だな。俺達きっと切っても切れないぜ?」
「困っちゃうね」
「何で困んだよ」
「だって、僕が落ちたら一蓮托生になっちゃうでしょ?」
「相変わらずバカだね、新八君は」
坂田相手だと何を言われても本当に年下だという事実が気にならない。
「新八が落ちたら引っ張りあげんのが俺の仕事」
「逆だったら僕、きっと引っ張るの無理だけど?」
「そしたら一緒に落っこって」
本気なのか冗談なのか。
坂田の言葉はいつもの色に紛れて分からない。
それでも。
自分達がずっと切れる事がないのだという確信だけは強くあって。
坂田のポケットから携帯を取り出す。
すっかり馴染んだシャンパンゴールド。
新八の、お守り。
祈るように手のひらで包む。
「坂田君に、会えてよかった」
少し上にある顔にそう言ったら。
「神様に感謝でもしとく?」
銀色の髪をくしゃりと混ぜて。
新八の神様が不敵に微笑んだ。
終
20080217発行「言問」より
20150725加筆修正
もんぺ