銀時は恒道館の門前で看板を見上げた。
今日は新八は休み。
する事もないからパチンコにでた。
案の定結果は散々で。
だから今、銀時はここにいる。
帰っても叱ってくれる声はないのだと思ったら無性に新八の顔が見たくなったのだ。
それに昨日の様子も気にかかった。
新八が万事屋に居ついてまだ数ヶ月、もう数ヶ月。
最初はその口煩さに耳を塞いでばかりだったのに、いつの間にか傍にいて当たり前の存在になっていた。
傍にいて、呼べば応える。
呼吸をするようなそのリズムは、一人気ままに暮らしてきた銀時の生活に不思議なくらい心地よく馴染んだ。
十六歳というあの少年の存在が自分にとって何なのか、まだはっきりとは見えないけれど。
隣に居てほしいと、素直に感じる。
言葉という形にはまだできないでいるのだけれど。
門をくぐって中に入ると正面に立派な玄関が見える。
けれど銀時はそこから入ることはせず、建物をぐるりと回りこんだ。
廃れているとはいえ曲がりなりにも道場だ、その敷地は広い。
目の前に見渡すような庭が開けた。
そこに面した縁側に目的の姿を見つけて銀時はゆっくりと近付いた。
広い家に横たわる、小さな身体。
新八は眠っているらしく、肩が緩やかに上下していた。
板の上は軒先の瓦の陰になって、顔の脇に添えられた手の端だけが白く眩しい。
銀時は起こさないよう注意しながらそっと傍らに腰を下ろした。
ほんの僅か視線を下げれば寝顔が目に入る。
初めて見る新八の寝顔。
万事屋に入って数ヶ月、何故か新八は一度も泊まろうとはせす、どんなに遅くなっても家に帰ってしまう。
だから銀時が新八の寝顔を見るのはこれが初めてだった。
眼鏡を外したところも初めてかもしれない。
隔てるもののない新八の寝顔は酷く頼り無げで、銀時は壊れ物に触るようにそっと手を伸ばした。
肌に触れることは憚られ、さらりと流れる黒髪を撫でる。
滑る素直な黒髪は、暫くあたっていたであろう陽の光を吸い取って銀時の指先を温めた。
その温度は一度だけ触れた少年の唇の熱さによく似ていた。
それは偶然の、大家であるお登勢に投げ飛ばされてぶつかった接触事故だったけれど。
唇が触れた事よりも、それに嫌悪を感じなかった自分に戸惑いを覚えた記憶の方が今も胸に鮮やかだった。
「ん……」
身じろぐ身体に指が止まって、手を引こうとして目を見張る。
閉じた新八の目元から、つっと零れ落ちるものがあったからだ。
右目で溢れた透明な雫が重力に従い左目へと伝い落ちる。
左の目尻を辿ったそれはやがて髪の中へと消えてしまった。
触れていいのか、起こしていいのか。
戸惑ったのは事実だけれど、本当は。
ただ音もなく流れる涙に魅入られて、動く事ができないだけだった。
瞼が動いて。
音を立てたら壊れてしまいそうな繊細さで空気が震える。
涙を湛えた黒はどこまでも透明で、ずっと見ていたいと思わせる美しさで光に触れた。
目を開いても覚醒には遠いらしく、焦点の合わない濡れた瞳はぼんやりと庭先を見たままだ。
名を、呼んでもいいだろうか。
声にしようと舌が新八の名に触れた時、庭を見つめたまま薄紅の唇だけが微かに動いた。
銀時は自分の声を仕舞って耳を傾ける。
「姉上が、お嫁に行きました」
少し掠れた寝起きの声音。
ポツリと呟いて、瞬きがまた涙を落す。
銀時の知る限りでは新八の姉はまだ嫁いではいないはずだ。
夢の、続きだろうか。
夢現の曖昧さに相槌を打つ事は躊躇われ、銀時はそのままじっと見守る。
「姉上が、笑ってくれるなら、なんだってするのに……嘘じゃ、ないのに……ど……して僕は」
自分の言葉に反応したのか新八の瞳にはまた涙が盛り上がる。
自分を見ない瞳と止まらない涙。
それが胸にちくりと刺さって、銀時は新八に手を伸ばした。
毎日を過ごす中で。
よく怒ってよく笑う、元気のいい少年だと思っていた。
自分が失くして久しいものを、眩しいくらいにその身に纏いよく動き回っていた。
けれど最近元気がなくて。
最後に笑顔を見たのはいつだっただろうかと思い出そうとして失敗する。
また一筋、涙が伝い落ちたからだ。
「新八」
名を呼んで、親指の腹で目尻を撫でると涙が指先を濡らした。
何かを感じたのか新八が僅かに身じろぐ。
頬に触れるものに新八の手が伸びて、確かめるように力が篭もった。
未だ意識は半分夢の中なのかもしれない。
応えるように握り返してやると漸く覚醒に至ったようだ。
「よう」
声をかければ視線が動く。
「銀さんっ?」
姿を認めて、掴んだ温もりの正体に気付いた途端、驚きも露に手を離される。
がばりと上体を起こした新八にまじまじと見つめられてしまった。
目を開いて銀時がいるこの状況が把握できないのか、大きな瞳は数度の瞬きを繰り返す。
取り繕わない素顔の新八がほんの僅か垣間見え、銀時の心を擽った。
「どうして……」
休みだと決めた日に、しかも自宅に銀時がいる感覚が自分の中に馴染まないのだろう。
「お邪魔してます」
「あ……はい」
寝起きのぼんやりとは少し違う、意識の上に一枚薄幕がかかっているような曖昧な眼差し。
その新鮮な感覚は銀時の中に不思議な高揚を齎した。
自然と手が伸びて。
寝起きの温かそうな頬にそっと触れたくなる。
あと数センチ。
届きそうな瞬間、はっとした様に新八の肩が揺れた。
「あっ、あの、今お茶煎れますからっ」
色付いた首筋と耳たぶ。
鮮やかな残像を残して新八は奥へと消えていった。
伸ばした手を宙に浮かせたまま銀時は新八の消えた場所を暫し見つめる。
そしてまじまじと自分の手を見つめ、この手の意味を考える。
触れたいと、思う気持ちの意味を。
傍にいる事の自然さ、呼ぶ声に返る事の心地よさ。
指先を濡らした涙と覚えている、唇の温度。
新八の存在が齎すものを全て集めると、それは一つの形を作るような気がした。








台所に駆け込んで、新八はその場にくにゃりとへたり込んだ。
大きく、息を吐く。
目を開けたらいきなり、いるはずのない銀時が視界に飛び込んできたのだ。
驚くなという方が無理がある。
しかも、ぼんやりとしていてうっかり手を握ってしまった。
温もりがまだ手のひらに残っている気がして新八は自分のそれを胸にぎゅっと抱きこんだ。
銀時に触れた。
ほんの僅かの接触だけれど、それは新八の胸を満たすには十分だった。
思い出して、そっと自分の唇に触れてみる。
いつだったか。
出勤したら銀時が上から降ってきて、唇が触れた事がある。
その場はお互いに触れる事無く有耶無耶に流れてしまった、銀時にとっては不幸な事故だ。
でも新八にとっては絶対に叶わない筈の望みが叶ってしまった出来事で。
忘れたくない事だった。
事故で起きた接触を後生大事に思い出にしているなんて、銀時が知ったらきっと眉を顰めるだろう。
自分だって馬鹿みたいだと思うのだ。
それでも。
叶う事のない願いだからこそ、拾い集めた思い出は大切に持っておきたい。
女々しい自分に呆れるしかなくて。
自嘲気味にため息を吐いた新八はゆっくりと立ち上がった。
蛇口を捻って冷たい水で顔を洗う。
脳裏におぼろげに残る夢の断片。
嫁ぐ妙と、微笑むその隣にいた銀色の……。
銀時は、涙に気付いただろうか。
自分は何か零してしまっただろうか。
秘密を、隠し通せているだろうか。
誤魔化したくて、手のひらに掬った水で何度も顔を濡らした。
眠りの淵で本心を吐露してしまう事が怖いから、泊まる事を避けていたのに。
急に不安になる。
それでも。
いつまでも銀時を待たせておくわけにはいかなくて、新八は観念するようにのろのろとお茶の支度を始めた。


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