はじめに
このお話は2007年の夏に発行されました銀新アンソロジー「百花乱舞・上」にお誘い頂き寄稿したものです。
発行から二年以上。
アンソロジーも既に完売しているという事もあり、お伺いをたてたところ主催者様にもご快諾いただきましたので今回サイトに掲載させていただく事にしました。
「花」をテーマにしたアンソロでした。
初めてのオフ原稿、初めての締め切り、という事で絶対にご迷惑はかけられないと死ぬ気で頑張った記憶が蘇ります。
今回ちょこちょこと手直しいたしましたがホントにちょっと、毛先を揃えた程度なので(笑)アンソロをお持ちの方には髪切った?って聞いてもらえないんじゃないでしょうか(笑)
自分でも好きな話なので、少しでも楽しんでいただけたらいいなと思います。
因みにアンソロ掲載時は「ただ音もなく降り積もる」というタイトルでした。
ではでは、どうぞ。
雨上がりの濡れた空気に微かに甘い香りを見つけて新八は歩を止めた。
振り向いてもそこには趣向を凝らした、あるいは伸びるに任せた民家の庭先が遠く続いているのみで香りを放つ大元の姿は見つからない。
けれどその存在は、姿はなくとも空気を伝って確かにそこにある。
「新八?」
並んで歩いていた銀時は急に立ち止まった新八に気付いて数歩先で同じ様に足を止めた。
「どした?」
暫く後ろを見つめていた新八は銀時に呼ばれて隣に戻る。
両手に持った買い物袋がカサリと鳴った。
買い物帰りの二人の手はそれぞれ荷物で塞がっている。
新八は二つ、銀時は片手に二つずつで四つ。
荷物が多い時に原付はあまり役に立たず、今日は徒歩での買い物を余儀なくされていた。
「沈丁花」
新八が隣に並ぶと二人はまたゆっくりと歩き出す。
「ん?」
「今、沈丁花の香りがしたんです」
「沈丁花って……ああ、あのなんか甘いやつな、そういや……」
新八に言われて銀時も濡れた空気を鼻に吸い込む仕草をした。
沈丁花。
春先に道を歩いているとふと香る。
決して強くはないけれど、不意に袖を引かれる様なさり気無い主張をする花だ。
「僕、沈丁花の香りって好きなんです」
緩く甘い微かな芳香。
それを纏うように新八は笑った。
「まぁ確かにいい匂いすっけどよ……そういうのって食えねぇじゃん?美味そうなのに食えねぇってストレス溜まんね?」
「……銀さんは情緒がないですよね」
「情緒じゃ腹は膨れねぇし」
「あはは」
銀時の軽口に笑いながら、胸の奥が微かに痛む。
確かにそこに感じているのに目には見えない。
それは抱えた気持ちにも似て。
新八は視線を落として自分の爪先を見た。
「銀さん」
「あん?」
「明日、お休み貰ってもいいですか?」
「……なんで?」
俯き加減に歩く新八。
銀時は綺麗に巻いた旋毛を滑って横顔を見る。
「家の、片付けが溜まってるんで……」
「ふーん。ま、仕事入ってねぇから別にいっけど……新八、最近元気なくね?」
「そんなこと、ないですよ」
「そっか?」
そうですよ、と小さく呟いた新八はほんの少しだけ足を早めて前を歩く。
俯いた首筋を、少し伸びた黒髪が隠した。
銀時がそれ以上深く聞く事はなく、また新八もそれ以上語る事はなかった。
言葉が途切れた帰り道。
少しずつ、花の香りは遠ざかる。
甘い余韻が消えた頃、遠くの方に万事屋の看板が見えた。
廃刀令と天人の蔓延る現代の江戸に侍は姿を消した。
恒道館道場。
門下生は去って久しく、今や廃業寸前のボロ道場だ。
早くに親を亡くした新八は、姉と二人きりでこの道場に住んでいる。
かつての栄華はどこにもなく、父親の遺志を継ぎ何とかここを遺したいという姉の強い想いだけで辛うじて建っている、今となってはただ広いだけの建物。
その場所を、嘗て姉は自分の身体と引き換えに守ろうとしたけれど。
結果それで道場が残ったとして、自分一人取り残されたこの場所に一体どれだけの価値があるだろう。
隣で笑う姉がいないのなら、新八にとってこの場所には意味がない。
あの時の訴えを姉が理解してくれたのかどうか、それはわからない。
ただ、もう二度と無茶をする事はしないと誓ってはくれた。
姉が笑ってくれるなら。
その気持ちは今も変わらないし、それを望むのは紛れもない新八の本心だけれど。
この頃少しだけ心に影を落すものがあって、新八はため息を一つ吐いた。
縁側に座って洗濯物をたたむ合間に目をやれば、松と岩で飾られた無骨な庭。
命の芽吹くこの季節、花の咲く木の一本もあればもう少し気持ちも安らぐだろうに。
剣術を生業とした父に風流を求めるのも無理な話ではあるのだが。
詮無い事だと知りつつも、ふっと気持ちが癒しを欲する。
少し、疲れている自覚があった。
手元にすっと影が伸びて新八は手を止める。
「新ちゃん、大丈夫?」
「え?」
かけられた声に顔を上げると庭先に、玄関から回ってきたらしい姉の妙が立っていた。
たたみ掛けの手ぬぐいを膝に載せたまま見上げるとその表情は何故か心配そうで、微かに眉が顰められていた。
「何がですか?」
止めてしまった手を動かして、たたみ終えた白い布を傍らに積み重ねる。
それを待っていたように妙が板の上に腰を下ろした。
「新ちゃん、最近元気ないでしょう。今日だって万事屋をお休みするし。何かあったんじゃないの?」
自分の頬に手を当てて小首を傾げるのは妙の癖だ。
滅多に休む事をしない新八が珍しく取った休暇に妙は少し戸惑っているらしい。
「何かって、何があるって言うんですか」
新八は少し膝をいざらせて妙の方に身体を向ける。
「毎日暇で、何かあってほしいと思うくらいですよ」
万事屋に勤めるようになってからまだ数ヶ月。
まともな仕事をした事は数えるほどしかない。
「最近家の掃除ができてなかったし、ちょっと片付けたいなって思っただけです。心配しなくても大丈夫ですってば」
妙の心配顔に新八は笑って見せた。
「それよりも姉上、支度はできたんですか?」
妙は今日同僚と買い物に行く予定だという。
「ええ、後はおりょうが迎えに来るのを待つだけよ」
新八は普段より少しだけめかしこんでいる妙を見た。
身内贔屓などでは決してなく(黙っていれば、と注釈がつくのがたまに瑕ではあるけれど)妙は女性として十分に美しい。
似た姉弟だとよく言われるけれど、新八自身そう思った事は一度もない。
結い上げた黒髪と軽くさした唇の紅が白い肌によく似合っている。
纏う着物は燃え立つような緋の色で。
その鮮やかさは気丈な妙の芯の強さにとてもよく似ていた。
多分に男勝りな人だけれど、新八にとってこの世でたった一人、血を繋げた肉親。
幼い頃から守られてばかりで、そういえば彼女の泣いたところを見たことがないなとふと思う。
自分はいつも泣きながら、妙の後ろに隠れているばかりだった。
成長するにつれ見上げていたはずの妙の顔が近くなるのに、この細い肩に全てを載せていたのだとある日気付かされた。
幸せに、なってほしいと思う。
道場を再興するという夢など捨てて、一人の女として幸せになってほしいと心から思う。
「本当に大丈夫?」
優しく、厳しく、いつも新八を心配してくれた妙の眼差しがじっと見つめる。
「あの天パに何かされたんじゃないの?」
万事屋の、新八の上司を捕まえて。
「やだな、本当に何もないですってば……寧ろしてくださいってお願いしたいくらい、仕事しなくて困ってるんです。すぐサボるんですもん、あの人」
「最低な男ね」
「ははは、そうですね……でも、悪い人じゃ、ないですよ」
でたらめだけど強くって。
でたらめだけど優しくて。
でたらめだけど、真っ直ぐな。
新八の上司、坂田銀時は不思議な男だった。
出会ったばかりだったのに、借金の形に連れて行かれた妙を助けるために力を貸してくれた。
一見ふざけているようだけれど、きちんと一本筋が通っている。
妙もちゃんとそれを見ていた。
「そうね……」
ふっと微笑む妙の、表情が柔らかい気がする。
それを見ると少し胸が痛くなって、奥に隠した黒い塊がドクンと脈を打った。
それを押さえるように新八は膝の上でぎゅっと拳を握り締める。
門の方から声が聞こえて。
「おりょうさん、来たみたいですよ」
誤魔化す様に笑顔を作る。
「そうね。じゃあ行ってくるわ」
「はい、行ってらっしゃい」
じっと見つめられて。
妙の細い指が新八の髪をそっと滑った。
「姉上?」
艶やかな唇が綺麗に上がる。
「新ちゃんが笑ってくれないと私、寂しいわ」
そう言い残して妙は踵を返した。
たたみ終えた布地をずらし、外した眼鏡を傍らに置く。
艶のある板の上に左側を下にして寝転んだ新八は、脱力するように深いため息を吐いた。
ここのところあまり良く眠れない。
理由は自分でわかっている。
胸の中に一つだけ秘密があって。
眠っているうちにそれが口から零れてしまわないかと思うと怖くてたまらないからだ。
誰にも言えない。
言ってはいけない。
これはずっと心の中に隠しておくべきもの。
消してしまえたらどんなに楽かと思うけれど、残念ながらそれはできそうもない。
新八は、銀時を想っている。
多分恋情という意味で。
最初は純粋にその魂に惹かれた。
初めて出会った時に感じた鈍い魂の輝きを、傍で、この目で見極めたいと思ったのだ。
けれど、傍に居るうちに目が離せなくなった。
自覚したのは最近の事。
その体温に触れてみたいと思う誘惑。
触れられたいと、望む困惑。
知られてしまう事がただ怖くて、呼吸を感じる距離には近づけないでいる。
そうして。
銀時への気持ちを自覚したのと同時に(それは自覚したからこそなのかもしれないけれど)一つの可能性に思い当たったのだ。
銀時が、会って間もない自分達を助けてくれた理由。
万事屋の話をする時に妙が柔らかく笑む理由。
新八の、憶測でしかないけれど。
銀時と妙。
二人はお互いを憎からず想っているのではないだろうか。
それはとても自然な事で、自分が抱えるこの気持ちよりもずっと正しくて美しい。
それに、銀時ならばきっとあの姉を受け止められる気がするのだ。
だから新八は。
妙に対するほんの僅かな罪悪感を胸に残したまま想いを奥底に閉じ込める。
陽の当たる縁側はぽかぽかと程よく暖かい。
この温もりが胸の中にある黒い塊を溶かしてくれないだろうかとぼんやり思いながら、新八はゆっくり瞼を閉じた。
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