降り積もった雪の上に、おそらくは鮮やかな赤。
日の光の下ならば鮮やかな色彩でそこに映えるだろうそれも、薄青い月明かりの元ではただどす黒い染みにしか見えない。
血に塗れた抜き身を携えた銀時は、その所業に凡そ相応しくない白を纏って足元に倒れ臥す男を見下ろした。
まだ温かい男のそれは冷たい雪を溶かすようにじわりじわりと滲み出る。
そのほの暗い侵食を銀時はぼんやりと視線で追いかけた。
名も知らぬ、物言わぬ男の屍。
銀時が、そうした。
過去も未来も、取り巻く環境も。
男の何を知っているわけではないし知る必要も感じない。
自分の中にはただ一つ、男の命を絶てという命(めい)があればそれでよかった。
それが“白夜叉”と呼ばれる自分に与えられた使命。
行動の理由はそれだけで十分だった。
物心がついたときから目の前にあるものを斬ってきた。
斬って、奪う。
両親を持たぬ銀時の、それが生きる術だったから。
生れ落ちてから今日まで。
温もりの記憶を持たない銀時には未だ人の命を絶つ痛みがわからない。
銀時にとって斬る事は動いていたものが動かなくなるという、ただそれだけの事でしかない。
成長と共に人の死を頭で理解するようにはなったけれど、心が動く事は一度もなかった。
初めて人を斬った日の感慨は、恐らく遥か彼方に置いてきてしまったのだろう。
他人の命を自分の生きる糧とする。
それが決して正しい道であるとは思ってはいないけれど、それしか生きる術がなかったのもまた事実。
気付いた時にはそうなっていて、自身の素性すらどうでもいいものになっていた。
頼れるものは何もなく、信じる事ができるのは己の腕一つ。
それが自分の命を繋いでいくための唯一つの拠り所であり、それだけを頼りに今日まで永らえてきたのだ。
倒れ伏したこの男の命もまた、銀時を生かす糧となる。
息絶える人の命で繋がれるこの生に意味があるとは思えないけれど。
絶ってしまうほど儚くもなれなくて、銀時は今日も命を繋ぐ。
仕事を終えた場所に長居は無用、と引き上げる為に踵を返そうとしてふと脚を止めた。
耳を澄ますと静寂の中、とたとたという音が小さく響くのが聞こえて銀時は屋敷を振り返る。
男には妻と二人の子供がおり、今日は男を残して不在だという事だけが最低限の情報として教えられていた。
だから今日が決行日となった筈だった。
家人がいるという不測の事態に銀時は身体に僅かな緊張を走らせながら耳に神経を集中させる。
屋敷の中から聞こえてくるその音は頼り無いような拍子を刻んでいた。
木の板を鈍く叩くような音は廊下を走るものだろう。
しばらくすると音が止んで玄関の引き戸ががらりと開く。
「ちちうえ?」
問うような、幼い声。
二人居る子供のうちのどちらかだろうか。
他に気配は感じられない。
体調でも崩して出かける予定を止め、父親と留守番をしていたのかもしれない。
訪問客を装って玄関先に呼び出した。
そうして絶った男の肢体はもう動くことはない。
少し場を外しただけの、いつまでも戻らぬ父親が心配になったのだろう。
様子を見に来たらしい子供は暫くきょろきょろとしていたが、やがて人影を見つけてこちらへ向かってきた。
黒い髪の、幼い少女。
身の丈に合わぬ大きめの半纏を羽織っている。
そのあどけなさに銀時は緊張を解いた。
油断をするつもりはないが、何かあればすぐに逃げ出せる算段はある。
常夜灯に照らされて布地の赤が鮮やかに浮きあがる。
目測でしかないが、恐らく背丈は銀時の腰に届くかどうかの程だろう。
近付いてきた少女は血脂も拭わぬままの抜き身を持つ銀時に一瞬だけ身体を強張らせたけれど、すぐその傍らで地に臥す父親に気を移した。
「ちちうえっ」
積もる雪に草履を取られそうになりながら駆け寄る少女は……いや、違う。
少女だと思った子供は半纏の下に紺色の袴を履いている。
一見した容貌は少女のようだが、どうやら銀時の思い違いだったらしい。
よく見れば動きに合わせて素直に流れる黒髪は少女にしては襟足がすっきりしていた。
幼い少年は駆け寄った父親の、動きを止めた身体をゆさゆさと揺する。
事切れた身体は左右に揺れるばかりで勿論返る声はない。
その様子を見ながら銀時は不思議な気持ちになった。
返り血こそ浴びていないものの、こうして抜き身の刃を提げ持って明らかに父親を斬ったであろう男が立っているのに。
子供というのはこうも無防備なものなのだろうか、と。
見つけたのが男の妻であったのなら。
あるいは子供でももっと複雑な分別の付く年頃であったのなら、こうして動かぬ身体に身を寄せる前に取るべき行動があっただろう。
もっと取り乱して泣き喚くのかもしれないし、或いはこの身と血塗られた刃に怯え、事切れた男を残したままどこかに逃げようとしたのかもしれない。
何れにせよ、少しでも騒いだなら容赦なく斬り捨て父親同様亡き者にしていただろう。
「ちちうえ、うごかないよ……」
だが何故かこの子供は銀時の思う反応を見せない。
ぺたりと座り込んだまま、傍らに立つ銀時を見上げてくる。
「おにいちゃんが、したの?」
黒い大きな目に涙を湛えて、頼れるものがそれしかないというように銀時に向かい問いかける。
傍らに脱げた草履が片方転がっている。
無防備な裸足の爪先が雪に埋れて冷たそうで。
どうしてか、無性にその身体を温めてやりたくなった。
血脂を拭う事は諦めて一振りだけした刀身を鞘に納めると、銀時はそれを腰から抜いて傍らに置いた。
その場に膝を付き目線を低くすると縋るような少年の視線が近くなる。
恐る恐る伸ばした指先が子供特有の柔らかさに届いた。
力を入れたら壊れてしまいそうな、こんな存在に触れるのは初めてで。
銀時は知らず身体を震わせた。
自分に触れたものの冷たさに驚いたのか、小さな身体がひくりと揺れる。
「俺が、怖いか?」
怯えさせないように、できうる限りの穏やかな声で。
他者の目に自分がどう映るのかなど考えたのは初めてで、どうしてそんな問いかけをしてしまったのかは自分でもわからない。
ただ自分に怯えた少年が、この場から駆け出して行ってしまう事が寂しいと思ったから。
問いかける銀時をじっと見詰めていた少年はゆっくりと首を横に振り、掠れるような声で“怖くない”と呟いた。
呟いて……。
「ふぇ……」
語りかけてくれる銀時に安心したのか、途端にべそをかきだしてしまった。
小さな身体が弾かれたように飛びついてくる。
「うわっ」
油断していた銀時は受け止め損ねて尻餅を着いた。
「う、ぇっ……」
飛びついてきた少年は銀時の胸元に身を埋める。
羽織の襟を握り締める幼い指先。
ぎゅっと引く力の頼り無さに僅かに戸惑った。
「ひっ……く、う……」
少年は腕の中で小さくなって必死に嗚咽を堪えている。
幼さにそぐわぬ泣き方に不憫が募って、気付いた時には包み込むように腕を回していた。
冷たくないように膝の上にきちんと載せてやる。
「……ぅえ、ぐっ……」
抱きしめられた事で緊張の糸が切れたのか、小さな身体の震えが大きくなった。
「なんて泣き方してんだよ……ちっせぇくせによ」
幼子の慰め方など知らないけれど。
水音は引っ切り無しに続くのに、切ないほどに声を殺すから堪らなくて。
己がそれを言うのかと口元を自嘲に歪ませながらも、そう声をかけずにはいられなかった。
丸い頭がごそりと動いて小作りな顔が銀時を見上げる。
「おに、ちゃ……」
視線が合うと黒い瞳は涙に沈み、やがてくしゃりと崩れ落ちた。
箍が外れたように自分にしがみ付いて泣きじゃくる少年をただ心の赴くままに抱きしめる。
そうしてやりたいと思う感情の正体を銀時は知る由もないけれど。
声と温かさに魂が深く震えるのを感じていた。
十八を数える銀時は既に女の肌を知っていたけれど、それとは全く違う温かさ。
息をして、自分ではない誰かの温もりがそこに存在する意味が自然に心に沁み込んで来た。
そして初めて頭ではなく心で理解する。
腕の中で泣く少年の悲しみに、己のした事の罪の深さを。
心の機微は知らずとも、斬った者の止まった鼓動が二度と戻らぬ事だけは知っている。
少年の父親も、もう還る事はないのだ。
けれども。
人の心を知って、自分のした事が少年を悲しませてしまったのだとわかった所で今更銀時にどうする事ができるだろう。
「なぁ」
考える事をせずただ生きる為に斬ってきた、これが代償なのだろうか。
「お前の名前、教えてくれねぇか?」
生まれて初めて自分から他人を知りたいと思った。
ゆっくりと撫でる、指先にあたる髪の柔らかさが銀時の心を緩やかに溶かしていく。
何をすればいいのかはわからないけれど、まずはこの少年の涙を止めてやりたかった。
「ぱちっ……」
「ぱち?」
「し、むらっ……ひっく……しん、ぱちっ……」
しゃくりあげながらも少年は銀時に答えてくれる。
その懸命さに胸が熱くなった。
「しむら、しんぱち?」
「う……うんっ……」
「新八?」
「うんっ……」
見上げてくる新八の、涙に濡れた目元を拭う。
「俺は坂田銀時」
「さかたぎんとき?」
「ああ」
自分の名を口にするのは何年ぶりだろう。
気付けばいつの間にか“白夜叉”と呼ばれ、誰も銀時の名を口にしなくなっていた。
「ひっ……く」
「俺が何したか、わかるか?」
動かぬ傍らの父よりも、生きて動く銀時に安堵する幼さに事の理解ができるのかはわからなかったけれど。
とても聡明そうな顔をしている。
皆までは無理だとしても、伝えたい事は伝わるだろう。
「お前の父ちゃんを、俺が動かなくしちまった」
「ふぇっ……」
変わらぬ事実を銀時が告げれば拭った黒が再び濡れる。
人が死ねば誰かが悲しむ。
そんな簡単な事が、どうして今までわからなかったのだろう。
強くなった新八の指の力を感じて銀時も抱きしめる腕を強くした。
この小さな温かい命を、どうしたら慰めてやれるだろうか。
自分の命で償える罪ではないとわかっている。
今ここで銀時が命を絶つことは簡単だ。
だがそれはただの自己満足で、新八の救いになどなりはしない。
ぐすりと鼻を啜る音。
少し気持ちが落ち着いたのか、新八が再び顔を上げた。
涙に濡れた大きな黒が、月明かりを綺麗に弾いて銀時をじっと見詰める。
「おにいちゃん、は……わるい人なの?」
問いかけられて、声が詰まった。
なんと答えればいいのかわからない。
今まで己の存在を善悪で考えた事などなくて銀時は困惑する。
「おにいちゃんは、いい人でしょ?」
信じるような真っ直ぐな声。
疑わない純粋さが胸を突く。
「違う……俺は、いい人なんかじゃねぇよ」
善悪の基準など知りはしないけれど。
今の銀時は新八を悲しませてしまった事が自分の犯した罪なのだと心から感じていた。
「どうして?」
銀時の否定に泣き腫らした目は不思議そうだ。
「どうしてって……」
「だっておにいちゃんはこわくないよ?」
そう言って新八は銀時にしがみ付いた。
新八にとって“怖い”と“悪い”は同義語なのだろう。
恐くない、から悪くない。
子供らしい穢れのない思考。
「けど父ちゃん動かなくしちまったんだぞ?」
それが死だとはわからなくても、新八は事切れた父親の姿をその目で見ている。
銀時が何かをしたのだとわかるはずだ。
「でもあったかい、もん……おにいちゃん、やさしいもんっ……こわく、ないもん…っ」
死という概念をまだ持たぬ幼子には、倒れた父と傍に居た銀時の存在とを結びつけるのは難しいようだった。
必死の訴えで純粋に自分を慕おうとする存在に銀時は初めて己の生を後悔する。
やり直せるのならもう一度。
叶うはずもないのにそんな虫のいい考えすら脳裏を翳めた。
「おにいちゃん……」
縋る温もりに愛しさを知る。
「おにいちゃんのほっぺ、つめたいね」
抱きしめて触れた頬に新八が小さく肩を竦めた。
「ああ……ごめんな」
顔を離すと新八の指が髪に絡む。
「かみの毛もつめたいよ。ゆきとおんなじ色だから?」
「どうかな……」
「つめたいけど、おにいちゃんのかみの毛きれいだね」
ふわりと笑われて、泣きそうになった。
堪えるように息を詰める。
「寒いから家、入ろうな」
「うん」
新八の目に父親の姿を晒しておくのが忍びなくて、銀時は軽い身体を抱えて立ち上がった。
「ちちうえ、さむくないかな」
抱き上げられた場所から見下ろして、新八が伏した父親の身を案じる。
「そうだな、あとで俺の羽織、かけておいてやるよ」
「うん、ありがと」
済まないと、心の中で男に詫びて銀時は傍らを通り抜けた。
新八を抱えたまま屋敷に入り玄関の床板に腰を下ろす。
「なあ新八」
膝の上ですっかり懐いてしまった小さな身体。
「なぁに?」
「お前がもっと大きくなったらさ」
頬に残った涙の跡を羽織の袖で丁寧に拭ってやる。
「俺の事、見つけてくれねぇか?」
今の新八に銀時を怨めと言っても恐らくは無理だろう。
幼い心が銀時の所業を理解するにはきっともう少し時間がかかる。
「見つけるの、かくれんぼ?」
小さな手の平が銀時の指を掴んだ。
「そうだな、かくれんぼみたいなもんかな」
「ぼく、さがすのへたくそだよ?」
いつも姉にからかわれるのだと尖らせた唇が可愛くて、つい口元が弛んだ。
「どんだけ時間かかってもいいよ」
髪を撫でながら慰める。
「ちゃんとまっててくれる?」
「ああ、新八が見つけてくれるまで、ちゃんと待っててやる」
答えてやれば、新八が嬉しそうに銀時の顔を見た。
「じゃあぼくがんばる」
何も知らない無邪気な黒に銀時の顔が映り込む。
「まってるの、やくそくだよ」
「……ああ」
銀時は自分を映す澄んだ黒を心に深く焼き付けるようにじっと見詰めた。
いつの日か真実を受け入れた新八は銀時を憎み、瞳にその色を宿すのかもしれない。
自分の行いが招いた事だとわかっていても、それを思うと胸が痛んだ。
せめてもの償いに、と思うのは身勝手だとわかっているけれど。
こんな命でも、新八の慰めになるのなら与えたい。

いつまでも、いつまでも、待っているから。
だから、俺を見つけて。
いつかその手で殺しにおいで。

新八を穢してしまうと知りながら甘い誘惑に抗えず、心の中で呟いた銀時は温もりを柔らかく抱きしめた。
「おにいちゃん」
「ん?」
「ぼくね、ははうえにならったからお茶いれられるんだよ」
とん、と膝から降りた新八が銀時の腕を引く。
「あったかくなるから、ぼくのおへやでまってて」
「新八……」
本来ならば出会う筈ではなかった新八の存在が、銀時の中に溢れるほどの感情を植えつけていく。
「ごめんな、俺もう行かねぇと」
「なんで?お外まだくらいよ。かくれんぼはお外があかるくなってからでしょ?」
八の字に眉を曇らせて、新八が小さな手の平に力を篭める。
私欲に塗れた望みを捨てて、このまま捕まり捌かれるのが一番正しいのだと十分にわかっているのに。
一度だけでいい。
束の間の、僅かな時間で構わないから明日を信じて生きてみたかった。
新八に再び出会うため、この生には意味が在るのだと信じてみたかった。
この小さな存在に身勝手を押し付ける最低さ。
わかっていながらそう、望んでしまった。
「かくれんぼは、今からだ」
「おに……ちゃん?」
銀時の言葉に、新八がわからないながらも何かを悟る。
「や、だよ……おにいちゃん……行っちゃやだ……」
「うん……ごめんな」
「うぇ……」
拭いてやった頬にまた涙を伝わせて、新八は腰掛けた銀時の首に縋りついた。
愛しくて、切なくて。
銀時は馴染んでしまった温もりに最後にもう一度腕を回した。
腕に余る小さな身体。
肌を湿らせる体温の高さは子供特有だろうか。
口元を擽る黒髪のしなやかさを感じながら銀時はその温度を心に染み付けた。
もうきっと、この先誰を抱いても安らぐ事はないだろう。
新八を腕に抱きながら、生まれて初めて銀時は人を想った。
倖せに、と。
奪った自分がそれを願う事は滑稽だと知りながらも、心から願わずにはいられなかった。



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