「おはようございまーす」
新八は万事屋の玄関をがらりと開けた。

「おはようございます」はここへ来る時の決まり文句。
それは朝なら当たり前の事だけれど。
新八にとっては共に過ごす一日を始めるための儀式のような、シンプルだけど大切な習慣だった。
今日は昼からの出勤。
朝が「おはよう」なら昼は「こんにちは」。
当たり前のことだけど、「こんにちは」なんていうのは他人行儀な気がして。
だから新八はいつも通りの挨拶をした。




とたとたとた、と少し重い足音がして廊下の奥から定春が現れる。
「定春!?」
居るとは思っていなかった定春を見て新八は少し目を見張った。
銀時と神楽、今日は二人とも用事があるとかで午前中は誰も居ないし依頼もない。
だから昼から来いと昨日言われた。
神楽と定春は大抵連れ立って出かけるから当然誰もいないものだと思っていたのだ。
なのに現れた、まるで新八を待っていたかのような定春。
「ワォンッ」
戸惑う新八の心の機微をわかるのか、一つ吠えると玄関先にお座りをした。
一言で「犬」といってしまうにはあまりにも大きなその身体はお座りをしても尚見上げるほどにでかい。
新八は玄関の下で定春は上。
尚更だった。
草履を脱いで定春と並び立つ位置を同じにすることで顔の位置が合う。
わかっていても誰もいないのは寂しかったから、思いがけず現れた存在は嬉しかった。
「おはよう、定春」
昼だけれど、ここでの一日を始める挨拶はやっぱりこれ。
「ワンッ」
そっと毛並みをかいてやるとふさふさのしっぽがパタパタ揺れた。
「今日は神楽ちゃんに置いてかれたの?一緒じゃないなんて珍しいね」
話しかけながら傍らを抜けると定春も後からついてくる。
居間に入ると定春のご飯はきちんと用意されていて、三分の一ほどを残して食べかけてあった。
さて何をしよう。
ぐるりと部屋を一望してからとりあえずソファに腰掛けた。
定春は餌の残りを片付けている。
掃除は昨日したばかりだから床の上には餌以外に置いてある物はない。
午前中あの二人が不在となれば流石にまだ部屋は整然としていた。
洗濯もこの時期は毎日する必要はないし、昼食は済ませてきたから夕食の支度にもまだ早かった。
その上依頼もないし誰もいない。
ないない尽くしのこの状況では何をしに来たのかわからない。
昨日もそう思ったから休ませて欲しいと頼んだら、銀時に駄目だと言われたのだ。
満腹になって満足したのか定春は新八の座るソファの脇にどしりと寝そべった。
大きな身体は「足元にいる」という可愛らしさとは無縁ではあるが。
手持ち無沙汰の新八は傍らの毛並みに目を向けた。
「暇だね」
「ワン」
「どうしよっか」
「ワン」
人語を解するかどうかは不明だけれど、新八の言葉に定春は相槌を打ってくれる。
考えてみれば定春と二人だけになる事は初めてかもしれなかった。
ソファを降りて定春の傍らに膝を付く。
前足に載せた大きな顔の、黒目がちな目が新八を見る。
白い毛並みをそっと撫でれば脳裏によく似た銀色が浮かんだ。
指に絡まる柔らかさは似ているようでどこか違う。
「二人ともどこに行っちゃったんだろ、ね」
「クゥ−ン」
ふかっと定春の腹の辺りに顔を埋めると新八の気持ちがわかるのか、定春の声が慰めるような色を含んだ。
「ありがと」
「ワンッ」
言葉じゃないのに、まるで会話をしているようで。
新八は身体を起こして立ち上がった。
「折角時間あるし。ブラッシングでもしよっか」
「ワンッ」
定春くらい身体が大きいと身体にブラシをかけることも容易ではない。
滅多にやってあげられない作業を、新八はいい機会だからとしてあげる事にした。
神楽はそういった細やかな世話を得意とせず必然的に新八がフォローする事になるのだ。
隣の和室に道具を取りに行く。
定春用として特別大きなブラシがあるわけではないから代用品はデッキブラシの柄を取ったものだ。
普通のブラシよりは大きいが、それでも決して定春の身体に合ったサイズではない。
多分に根気の要る作業だった。
でも新八はその作業が嫌いではない。
ひとつの事に集中して、それを根気よく続ける事は得意なのだ。
抜けた毛を置くための新聞紙を広げ準備をすると定春の大きな身体に丁寧にブラシをかけていく。
健康な定春の白い毛並みはブラシをかけると綺麗に揃って艶を見せる。
それを見て脳裏に浮かぶのはやっぱり跳ねた銀色で。
「ホント、どこ行ってんだろ」
家に居て、何をするわけでもないけれど。
でも二人がいないのなら万事屋にいてもあまり意味はないのだ。
理由を聞いてもとにかく昼から来いとしかいわれなくて、新八は戸惑うばかりだった。
身体の毛並みを粗方整えて、今度は頭にブラシをかける。
「あの天パのおっさんは何考えてんだろね」
「ワンッ」
顎の下や耳の後ろを丁寧になぞってやると定春の目が気持ちよさそうに細められた。
濡れた鼻がぴすぴすと鳴く。
仕上げに新八は手で顎の下をわしわしとかいてやった。
「よし、終わり」
「ワワンッ」
時間をかけてブラシをかけてもらった定春は満足気だ。
傍らに敷いた新聞紙には白い抜け毛がこんもりと山になっていた。
新八はブラシについた毛を丁寧に取ってその山に足す。
けれど定春の細い毛はブラシに絡み付いてなかなか取れず、つい集中してしまった。
定春の耳が何かを捉えたようにピクリと動いたのに新八は気付かない。
「ワンッ」
吠えた一声にようやく気付いて。
「定春?」
身体を起こした定春を座ったまま見上げた。
定春の口が新八の袖を咥えてそっと引く。
「え、何、どうしたの?」
加減はしてくれているものの、定春の力で引かれれば袖が縫い目から破れそうで。
新八は慌てて立ち上がる。
引くのを止めない定春に連れられた新八はそのまま玄関へと導かれた。
「お散歩行きたいの?」
訳がわからず、けれど引かれるまま素直に従う。
どうやら外に行きたいようだということだけはわかった。
「わかった、定春。お散歩行くから。だから用意するまでちょっとだけ待っててよ、ね?」
「ワンッ」
一応の理解を示してくれたようで、定春は袖を離して新八を解放してくれた。
玄関でお座りをする定春を残し一旦居間へ戻る。
昼から出勤しろという事は昼には銀時達も帰ってくる、という事だから留守にするのは不味いだろうかと思ったけれど。
どうせやることもないのだから定春の散歩だって立派な仕事だ。
行き先がわかっていれば大丈夫だろうと、新八はメモを残すことにする。
『定春の散歩に行ってきます。新八』
散歩、だけでは行き先も何もあったものではないけれど、理由もなく不在にするよりはましに思えた。
「ワワワンッ」
催促するような鳴き声が響いて。
「今行くよー」
書いたメモを銀時の机の上に置いて散歩セットを用意すると玄関に向かう。
「お待たせ。行こ」
戸を引いて定春を先に出して戸締りをする。
階段を降りると待っていた定春がまた吠えた。
「ワンワンッ」
「うん?」
歩き出そうとはせずに鼻先で新八の身体をぐいぐいと押す。
「え、ちょ、何……定春?」
摺り寄せるように首を曲げ、新八の身体を自分の身体に押し付けるような仕草を続ける定春に困惑するばかりだ。
「お散歩行くんじゃないの?」
戸惑う新八を焦れたように定春は押すばかりで。
「ワンッ」
鼻で押されて身体を寄せられて。
ようやく新八は定春の意図するところを推測する。
「もしかして、乗れって事?」
「ワォーン」
通じた事が嬉しかったのか定春は高く吠えた。
早く乗れと急かすようにぐいぐいと押してくる。
「わかったってば。乗るから、乗るからそんなに押さないで」
乗る意志を見せると定春は身体を低くしてくれた。
「もー、今日はなんなんだろ。銀さん達はいないくせに昼から来いって言うし」
振り回されてる感が否めない。
「定春、なんか知ってるの?」
「ワンッ」
定春の一声は知っているの意なのか単なる相槌か。
頭を一つ撫でて新八は白い背中に跨った。
定春が立ちあがるとちょっとした高さだ。
慣れない視界に全てが新鮮に映る。
脚を踏み出す定春が少しずつ歩調を速めて新八に心の準備をくれる。
振り落とされないようにしっかりと首輪に捕まると、それを感じて良しとした定春が江戸の町を一気に駆け抜けた。



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