どのくらい時間が過ぎたのか。
腕の中で新八が大きく息を吸い込んだのがわかる。
吸い込んだ息がゆっくりと唇から漏れて。
「ん……」
閉じていた瞼がそっと開かれた。
覗き込んだ顔には幾分血の気が戻ってる気もする。
手の甲で触れた頬のかすかな温もりに俺は少しだけ安心した。
「気分どうだ?」
「少し……」
「少し、良くなった?」
「ん、はい」
新八はまだ少しぼんやりしてるみたいで、俺の胸に手を突いて身体を起こすと自分の膝に顔を伏せてしまった。
こんな時なのに、伏せた新八の項の白さに目を奪われる。
「新八」
名前を呼ぶ声を掻き消すようにチャイムの音が重なった。
のんびりしたリズムが昼休みの終わりを告げている。
その音に新八が顔を上げた。
「もう行かないと……」
それはごく当たり前の意見。
昼休みが終わったら午後の授業が待っている。
でも行かせたくなくて俺は新八の身体に腕を回した。
「次の授業誰?」
「近藤先生」
「んじゃ大丈夫だな」
あの人なら気がいいからサボらせても平気だろう。
こいつの具合が悪かったのは嘘じゃないんだし、後で俺がうまく言ってやればいい。
それに多分こいつの授業態度なら十分免除される範囲だと思うしな。
「先生は、授業ないんですか?」
「俺はこの時間はフリー」
「だから僕もサボれってことですか?それって教育者としてどうなんですか」
「教師だって人間じゃん?」
「……微妙な気がする……」
「……新八最近辛口だよね」
「嫌いになりますか?」
「ジョーダン。そういうとこも可愛いデス」
「本当ですか?」
「ホント、ホント」
「まあいっか」
「投げ遣りだな、おい」
「信じてます、ってことです」
振り向いた顔でにこりと言われて。
またやられた。
新八の言葉には嘘がなくて、思った事をまっすぐに話すから俺はいつも打ち抜かれて孔だらけ。
命がいくつあっても足りないってこういうこと?とか思ったり。
その度に惚れてるなって自覚するわけだ。
振り回されてる……って言ったら多分新八の反撃を食らうけど、実際そうなわけ。
行動で振り回すのは主に俺の方だけど、気持ちでならそりゃもう振り回されっぱなし。しかも相手は天然だ。
「俺だっていいと思ってるわけじゃねーよ?けど目の前であんなんなられたら心配すんだろが」
「それは……ごめんなさい」
軽口の応酬にすっかり安心しちまったけど、あの時はまじで血の気が引いたからな。
「謝る事はなんもねーけど。平気か?」
「もう大丈夫です」
「ならいいけど……お前、どっか悪いの?」
俺の質問に新八は首を横に振る。
「そういうんじゃないです」
どういうわけか黒髪からちょこんと覗く耳がほんのり赤い。
「けどいきなりあんなの怖いじゃねーか」
「だから、あれは……なんていうか緊張して……」
「緊張?」
今度は首を縦に振る。
「学校なのに、先生があんなキス、するから……緊張しちゃって……」
「緊張しすぎで気分悪くなったって?」
こくりと一回頷く。
えー、なにそれ。
かぁーわぁーうぃーうぃーってなるんですけど。
「新八、嫌なら殴っても蹴ってもいーからちゃんと抵抗しねーと」
何かにつけて強引だって自覚はあるけど、やっぱ新八に無理させるのは本意じゃねーしな。
「でも……別に、やじゃないし……」
新八が。
俺の全部を許すから。
だから欲しい気持ちに歯止めが利かなくなる。
っとに、この子はどこまで柔軟なんだよ、誰か助けて。
「新八、頼むから俺が校内でなんかしようとしたら殴ってくんね?多分自分じゃ歯止めが利かねーわ」
今だって、頭ではわかってるのに抱き締めた腕を解くことができないでいる。
もう、新八が突っぱねてくれない限り俺からこの手は離せない。
……って、あれ?
手が痛いんだけど。
「新八君、もしかしてセンセの手抓ってる?」
新八の腹の上で組んだ手を覗き込めば、新八の指が俺の手の甲をつまんでるのが見えた。
「本当に離してくれるのかなと思って」
間近からじっと見られた。
新八君はお買い物で失敗しないタイプですか?
「効果ないみたいです」
「……ホントだね」
新八をホールドしてがっちり組んだ俺の指は赤くなった手の甲にもびくともしなかった。
すぐに新八の柔らかい掌が、癒すみたいに手の甲を覆ってくれる。
だってなー。
こいつの抱き心地って半端じゃねーのよ。
俺のため?俺のために生まれてくれたの?ってくらい本当に腕に馴染む。
傍にいれば手が伸びちまうし、届いたら抱き寄せちまうし、抱き締めたら離せねーじゃん。
あれだよ、ホップステップジャンプ、みたいな。
もう新八が傍にいたら条件反射のセット動作なわけ。
ガッコに居るときはまだ何とか理性がもつ、けど人目がなかったら即アウト。
「ホントどうすっかなー」
こいつに出会って俺はきっと何かが壊れた。
可愛くて可愛くて、愛したくてたまらない。
ぐっと前屈みになって俺は新八の背中に体重を乗せた。
「お、重っ……」
俺がかける圧力で、新八は膝を抱えるみたいにして丸くなる。
新八が餡子で俺が皮で。
このまま饅頭になっちまいたい。
世界で一番甘い饅頭になれる自信があるよ、ほんと。
……思考はどんどん馬鹿になるばかりで。
目の前には新八の項が誘うように甘く香ってる。
喉が、渇く。
ああ、新八ごめんな。
俺の頭ン中ではお前もうめちゃくちゃだよ。
毎晩どろどろでぐちゃぐちゃの俺塗れ。
どうすんだよ俺、もうそこに三十路が見えてんですけど。
頭のネジは既に吹っ飛んで警報は鳴りっぱなし。
それでも俺が新八に手を出せない理由はとても単純で。
怖い、の一言に尽きる。
けど、単純な事ほど根は深く、実は難しかったりする。
未成年だから、生徒だから……って、そんなもんは建前で。
ホントは。
抱き締めた腕を離せないように、きっと一度抱いたら止まらない。
いつかこいつを壊すんじゃないかって、その恐怖が俺にブレーキをかける。
本能だけの獣になったらきっと俺はこいつを食い殺す。
「先……生、僕、あんこが出ちゃいま……すって……ば」
ぐぐぐっとジャッキみたいに新八が俺を持ち上げ……ようと頑張ってる。
ああ、こっから出したくねーのになぁ。
ちょっとずつ身体が持ち上がる。
頑張るなぁ。
努力家だよなぁ。
そゆとこもすげー可愛いし。
もっと堪能したかったけど、かわいそうだから開放してやることにした。
新八は肩で息をしてる。
「……死ぬかと思った」
荒かった呼吸が少しずつ整っていく様はなんつーかこう……かなりエロい。
「坂田先生」
少し硬質な新八の声。
あれ……怒っちゃった?
「僕決めました」
何を?
「もう学校では先生の傍には近付かないことにします」
……まじで?
「坂田先生は嫌われちゃったってことですか?」
俺の脚の間に座ったまま、こっちを向いてくれない新八。
ちょっとうつむき加減の小さな後頭部に向かって問いかける。
自業自得といえなくもないこの結果は、でも俺にとっては一大事。
「ぶっ」
うごご。
顎の下に収めてた新八の後頭部に頭突きをかまされた。
新八、意外にワイルドなの?
なんか顎よりそっちにすげー衝撃を受けた。
そんなに勢いがあったわけじゃないけど結構痛い。
だって骨と骨よ?新八も痛かったと思うよ。
ジンジンする顎を両手で押さえ、立ち上がった新八を思わず見上げた。
「新八?」
俺を見下ろす新八は何も言ってくれなくて。
そのまま立ち去ってしまいそうな気配に慌てて手を伸ばす。
新八を捕まえることに集中し過ぎてここが階段だって事を失念した俺は危うくバランスを崩しかけてとっさに手すりを掴んだ。
アブネ、いろんな意味で寿命が縮んだよ。
一度深呼吸をしてゆっくり新八の手を引いて階段から離れる。
壁際まで引っ張って立たせると両手をついて身体を囲った。
新八は俯いたまま俺の顔を見ない。
ああ、これって出会ったときみたいだな。
あん時も新八は俯いて、全身で俺を拒絶してた。
勿論今は目を見てくれないだけで、拒絶のオーラはないけれども。
「なんでそういうこと言うんですか……冗談でも、やです」
額をこつんと寄せて。
「先生の声で、嫌いとか言わないで、下さい」
ああ、駄目だ。やっぱ手が伸びる。
「わり」
小さな身体を腕に抱きこむ。
もうこれ自然現象に認定してくれねーかな。
「嫌なら言えって先生は言うけど、できないです」
新八の腕がぎゅっと俺に廻された。
「先生のすることなら何も、嫌じゃないし」
ぎゅうぎゅうと、しがみ付くみたいにして新八は精一杯俺にくっつこうとしてる。
まだ少し痺れの残る顎にさらっと黒髪が当たる。
「先生の手、離したくない、です」
校舎内の静けさを壊さない新八の声。
こんなに甘い告白は初めてで。
真っ直ぐに立っていられなくて俺は新八ごとずるずるとしゃがみ込んだ。
向かい合わせて新八の両手を取る。
「なぁ新八。今まで誰かと付き合ったことあんの?」
唐突な俺の質問に不思議そうな黒い瞳で見つめ返して新八はゆっくりと否定の仕草をする。
「キスは?」
少し考える仕草をする。
「初めてしたのは多分……姉、です」
「ね、姉ちゃんとか」
「子供のころですけど」
そうでなきゃ困るって。
「じゃあ、そーゆーんじゃない初めてのチューは?……いつ?」
新八が俺を見る。
「保健室で、先生と」
頬は赤いのに、逸らさない視線は真っ直ぐに俺を見て。
新八の言葉は気持ちを誤魔化さない。
ン十年、先に生まれて余分に生きてたってそんなのちっとも役に立ちゃしねぇ。
過去を省みて、俺は穴があったら放り込んで生き埋めにしてくださいって気持ちになってみる。
カラダだけ。
気持ち良けりゃそれでよかった。
最低だけど、最低でよかった。
感情とか、想いとか。
煩わしくて逃げてばかりで。
逃げて逃げて逃げて、その結果たどり着いたのが新八なんだとしたら。
俺は幸せになる資格があるだろうか。
こいつに救われる資格があるだろうか。
今なら。
過去に触れた女たちに、まとめて刺されてもいいかもしれない。
きっと新八は泣いてくれる。
「なぁ、新八」
向かい合わせの新八の身体を胸にぎゅっと抱き込む。
「俺、最低男」
細い身体に、縋るみたいに回した腕が少し震える。
「多分、何百回もキスはしたけど。誰の顔も覚えてねぇ……」
抱きたくて抱いた事はなく、ヤりたくて抱いた記憶しかない。
ホントのホントに最低で。
新八に触れるのに資格がいるならきっと俺は出会うことすら許されなかった。
「……その何百回の中に、好きな人としたキス、ないんですか?」
腕の中から聞こえる新八の声。
その色は、責めるわけでも咎めるわけでもなく。
只静かに零れ落ちる。
好きな相手と初めてしたキス。
そう聞かれて。
俺の記憶の中に鮮やかに残るのは、たった一つ。
「保健室で、新八と」
黒髪に囁けば、どうしようもないくらいの愛しさが沸きあがる。
今でも、羽根みたいにそっと触れた優しい温度を覚えてる。
絡み合う舌も、混ざり合う唾液もない、ままごとみたいな軽い接触。
だけど。
そのキスは今までしてきたどれよりも、多分一番深い。
「クラスの女の子たちが、先生の事かっこいいって騒いでたりすると、なんか……ちょっとやだなって、思うんです」
呟くみたいな告白。
「ヤキモチ、妬いてくれんの?」
視線を上げた新八が俺を見て、一度瞬きをする。
「ヤキモチとか、よくわからないけど……。先生が、僕だけの先生なら嬉しいなって、思います」
伸び上がった新八の唇が俺に重なる。
それはやっぱり触れるだけで、すぐに離れてしまったけれど。
「先生の記憶に、僕が残ってるなら……すごく、嬉しい、です」
そういって笑う新八はどこまでも柔らかくて。
「……なあ、新八。丸くて、柔らかいものってなんだと思う?」
俺にとってこの世で一番丸くて柔らかい生き物は、首をかしげて俺を見る。
「ゆでたまご」
そだな、確かに丸くて柔らかい。
硬い殻を剥いたつるんとした白身は、でもきっとお前よりは硬いと思う。
「大福」
それも白くて柔らかい。
指先で突付いたらぷにっとへこむ白い生地、でもきっとお前の方がずっと柔らかくて甘いんじゃねーかな。
「後は……」
頬をそっと摘む。
「食いもんばっかだな」
柔らかいけれど、でも別に肉付きがいいわけじゃない。
新八の輪郭は小さめで、すっきりとしている。
でも、何よりも柔らかい。
俺よりも小さな身体は不思議なくらいに俺を包んでくれる。
小さな新八の、大きな存在感。
もう、俺の中からは決して消えない鮮やかな記憶。
唇を近づけて、吐息のかかる位置で止まる。
このまま、呼吸が混ざり合うくらいに唇を絡めあいたいけど。
我慢、しねーとな。
なにもしないで離れていこうとする俺の白衣を、新八の手が掴んだ。
「し、しないんですか?」
「はい?」
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