静まり返った校舎内。
物言わぬ重い金属扉。
ノブを回せばキィ、という鈍い音がして薄暗い屋内に筋のように光が入る。
開錠済みの屋上の扉。
それは即ち新八が待ってる事を意味するわけで。
初めての状況に何故だか心拍数が少し上がる。
俺にそんな繊細な感情があったんですか?って思わず自問自答してみたり。
きっと待ってるのが新八だからなんだよな。
気温は高めだけど、やっぱり乾いた空気に吹く風は暑さを和らげる。
多分日陰だったら過ごしやすいだろう。
いつものコースを辿っていつもの場所へ。
居た。
決めたわけでもないのにいつの間にか定位置になった場所。
いい塩梅に日陰だし。
これも日頃の行いの賜物ですかってね(勿論新八の、な。言われなくてもわかってます)。
もしかしたら辿り着く歩数も同じかもしれねーな。
待ってる新八は壁に凭れて抱えた膝に小さな顎が乗っかってる。
やべぇ、可愛い。
授業中に新八を拘束すんのはこれで何度目だったか思い出してみる。
多分まだ、指の数は足りる。
けど教師失格、人間失格。
今に始まったことじゃねーけど、改めて再認識。
俺、駄目じゃん。
ホントにこんな俺でいいの?新八君。
目は口ほどにものを言う、から俺の気持ちは新八に伝わった……のかもしれない。
新八が俺を見た。
「先生、大丈夫ですか?」
近付いた俺を見上げる瞳は心配そうだ。
『可哀想な子を見る目』にならないところが新八の新八たる所以。
「ん、なんでもね。それよりも、悪かったな。授業……大丈夫か?」
隣に腰を下ろしつつ、強引だった自覚はあるから聞いてみる。
やっといて今更、ってのが俺の悪い癖かもな。
質問に、新八は何も言わずただ一度だけ小さく頷いた。
大丈夫でもそうじゃなくても。
新八は自分で決めた事だからいいんだって、きっと言う。
「バイト以外することなくて、宿題も結構進んでるんです、だから……」
「そか」
「……はい」
新八はきっと俺みたいに8月31日に宿題を始めるなんて事はしたことねーんだろうな。
だからって、集中して宿題が出来る貴重な時間を俺の為に無駄にする義理はない。
でも新八はそうはしない。
宿題が済んでるから、なんてむしろ俺のための免罪符。
果ての見えない新八の、怖いくらいの許容範囲。
それはどこまでもどこまでも俺を甘やかして。
嬉しくて堪らねーのに底の見えない自己嫌悪。
膝に引っ掛けた腕の輪っかに顔を突っ込む。
はぁ。
王様の耳はロバの耳って、叫ぶ代わりにため息を吐いた。
「本当に大丈夫ですか?」
耳元で聞こえる声に視線をずらす。
目に飛び込んだのは新八の胸元。
さっき廊下で気づいた時からずっと取れない引っかかり。
童話では、床屋は秘密を井戸に捨てたけど。
詰め込みすぎたそれはやがて風になって国中に流れた。
言いたい事を言わずに溜め込んだっていい事なんてなんもねぇって話……じゃねーと思うけどさ。
ため息も、気がかりも、溜め込むのは性に合わない。
「なぁ」
「はい」
「新八君はいつ高屋さん家に嫁いだんですか?」
“志村”であるはずの新八の胸元にあったのは何故か“高屋”。
心なしサイズも合ってないようなお仕着せのそれが新八の身体を包んでる事に俺が受けた衝撃を、わかってくれる?
新八の指が胸元を摘むと紺の糸、“高屋”の刺繍が奇妙に歪む。
「嫁いだってなんですか。友達ですよ……借りたんです。着替えようと思ったら上だけ忘れてきちゃったみたいで入ってなくて。そしたら貸してくれるって……」
「そいつはどしたのよ、授業」
「裸でやるからいいって……」
「新八君の為に自分を犠牲にしてくれちゃうほど仲良いんだ?」
「幼馴染なんです」
「ふーん」
「でも途中でバテちゃって、保健室行きになっちゃったんで悪い事したなって思って」
ああそれで眺めてる中に不審者がいなかったわけね。
新八のいる付近に上半身裸の人間がいたらぜってー気付くし。
それにしても、だ。
もしかしたら新八が半裸で体育受けてたかもしれねーピンチを救ったそいつの行動は褒めてやりたい善行だ。
けど、新八の肌にそいつの服が直接触れるってのは考えただけで虫唾が走る。
なんて大人気ない感情。
小学生以下じゃねーか。
「それで先生怒ってるんですか?」
斜め下から小首を傾げんの、ヤメテ。
「俺、怒ってる?」
「怒ってるっていうか……変です」
「変……だよなー。先生、マダオだからね」
あーあ、ホントにもうダメダメですわってな……はぁ。
「先生」
「ん?」
反省してる傍から俺を駄目にする甘い声。
顔が見たくて視線をずらすけど、新八は膝に顎を乗せていてこっちを見ない。
俯き加減の横顔と、少し低めの鼻に引っかかった眼鏡。
「あの……」
「どした」
「えーと……」
言いよどむ新八。
指先が「志村」って書いた上履きを所在無げに弄ってる。
「何ですか?ご意見ご要望はどしどしお寄せくださいよ?」
何だっていい。
新八が望むなら、何だってしてやりたい。
突き詰めれば結局それは俺が幸せなだけの自己満足なのかもしれねーけどな。
落ち着きなく視線が彷徨って、指先が戸惑う。
絵にかいたような緊張を纏って、やがて指がつま先をぎゅっと掴んだ。
意を決したように。
「先生の……先生のひ、膝の間に座っても……いいです、か……?」
膝の間に埋まりそうなほどに顎を押し付けて、覗いた耳は一瞬で真っ赤。
勇気を振り絞った新八の告白は俺を打ちのめすには十分だった。
「やっぱり、暑いから嫌ですか?」
頭の中は高速回転してるけど、外面見たら止まってる俺。
それを否定だと思ったらしい新八に俺は慌てて返事を返した。
「ちょ、やな訳ねーだろが……どーぞ、どーぞ、大歓迎よ」
俺の肯定にほっとした新八がおずおず……って擬音が背後に書いてありそうなほどゆっくりと移動する。
軽口を叩いてみたものの、俺は酷く緊張した。
勿論初めてじゃない。
新八を膝の間に、なんてもう何度引っ張り込んだかしれねぇ。
むしろこいつの指定席だし。
新八だっていつもは呼べば微かな戸惑いを少しだけ浮かべて、でもわりとすんなり納まってくれる。そういうところは潔い。
けど、自分からってのは……初めてなんじゃなかろうかってな。
その事実が生む妙な緊張感。
「じゃあ……お邪魔、します」
「お、おう」
返事は情けなくもぎこちなく。
ふわりと空気が動いて小さな、優しい体温が俺の隙間を埋めた。
少しの間を置いて、そっと背中を預けてくる。
ほっと、新八の身体から力が抜けて。
俺はそろりと腕を閉じた。
そうした途端に緊張は解けて新八がゆるりと俺に馴染む。
「駄目なおっさんを慰めてくれんの?」
「……慰め方なんて知りません」
そんな事を言うけれど。
微かに身を摺り寄せるようなさり気無い仕草に俺の気持ちは慰められる。
顔を寄せれば前の授業でかいた汗が微かに香った。
その甘さに思わずクラリ。
「ごっ……ごめんなさいっ、僕汗臭い……」
顔の傍でくん、と鳴らした鼻の音に新八が慌てて身体を離そうとした。
「いーって」
それをやんわり抱き込んで。
「新八、今日はなんか甘くね?」
「え?」
「新八君から、凄く、甘い、匂いがします」
さらりとした黒髪を唇で一房すくって滑らせた。
髪が流れて甘い香りがふわりと立ち昇る。
新八自身の匂いに混じる、いつものシャンプーとはあきらかに違うそれ。
「あ」
指摘に、細い指が戸惑うように黒に絡んだ。
「あの……」
所在無げな指先は言い訳を探して。
「薬局で買い物した時に試供品をくれて……」
「ああ、新商品のシャンプー?」
「えっと、髪につけるクリームみたいな……」
「ヘアパックとかいうやつ?」
「多分」
「何でそんなもん……」
ああいうもんは女が使うのは勿論わかるけど、それを何で新八が?
そんな事しなくても十分綺麗な髪だと思うし……第一新八は、小奇麗にはしてるけどそんなことに構うようなキャラじゃなくね?
やるのが悪いってんじゃねーけど、なんか腑に落ちないっつーかね。
俺の疑問に、何故か新八は顔を伏せて丸まっちまった。
「新八?」
折角ひいたのに、また耳が赤くなってる。
「どした?」
腕の中で丸くなった新八の、小さな背中にそっと乗っかる。
「……ハチミツが」
微かな、ボソリとした告白。
「ん?」
「ハチミツ入りだって、書いてあったから……」
新八の小さな告白を、頭の中で再構築する。
試供品のヘアパックがあって、多分普段ならそれは姉ちゃん行きなんだろう。
でも蜂蜜入りだって書いてあったからついつい髪に付けてみちゃった、って事は……どういうことですか、おいおい。
触れた新八の耳は唇から溶かされそうに熱い。
ああどうすんだよ。
頭ン中に花が咲きそう。
「……先生甘いもの、好きじゃないですか。だからちょっと……まさか先生に会うとは思ってなかったんですけど……」
なにそれ。
つまり俺の為にお試しでちょっと甘くなってみようとか、そういう試みをしてくれたって事なわけですか?
ホントにもう……どーにかなるっつーの。
「新八君……勘弁して……」
新八が、ハチミツ塗ってコンニチハって……そりゃ鴨葱どころの話じゃない。
二回抑えた理性が三度目の正直でぶち切れそうだ。
どうしようもないのよ、俺。
「新八さぁ……」
「はい」
「立ち入り禁止とか混ぜるな危険とか。注意書きは守るタイプだよな」
「そんなの当たり前じゃないですか」
「だよな」
穴があったら覗いてみたい、ボタンがあったら押してみたい。
そういう人間なら当然ある好奇心を、新八はきちんと抑える理性を持ってる。
なのに、こういうところはホントに天然で。
言い換えればそれは俺に対する信頼の現われなのかもしんねーけども……『変態注意』とでも背中に注意書き貼っといたらいいんかねぇ。
いや、むしろ新八に貼るべきなんだよ。
『混ぜるな危険』ってな。
「新八、それ……もうつけんな」
甘い香りを吸い込みながら、俺はやんわり警告する。
「やっぱり変……ですよね」
萎んでいく声音は後悔の色。
俺は数分前まで太陽の下にあった黒髪をクシャリと混ぜた。
指先を温めるのは太陽熱なのか、新八自身の体温なのか。
馴染みすぎてもうわからないくらいにそれは自然に俺の皮膚に溶けた。
「これ以上新八君が甘くなると先生臨界点突破しちゃうから、ね?」
「臨界点、ですか?」
「そう」
志村新八、ハチミツ風味……って、どんだけ破壊力あるメニューよ。
ファミレスにあったら毎日通っちゃうだろが。
「よく、わからないですけど……」
「わかんなくていいから、一個だけ覚えとけ。これ以上甘くなんの禁止、な」
「僕、甘いですか?」
「そりゃもう」
しゃぶりつきたいほどにね。
「どした?」
ちらりと見える新八の横顔は何故か嬉しそう。
尋ねてみたらば。
「だって、先生がそう思ってくれたら嬉しいから」
なんて事言ってくれちゃうの。
あー、もう駄目、この子駄目。
っていうか俺が駄目。
甘過ぎ甘過ぎ、糖分過多で軽く死ねるわ。
「新八、先生多分糖尿で死ぬ」
「え、や……です」
即答。
なんかもう、愛情ひしひし感じちゃって堪んないんですけど。
振り向いた顔が可愛かったから、口元にチュっとかしてみたりしてな。
間近にある顔がちょっとだけ吃驚して、すぐに唇が真一文字に結ばれた。
ふざけた俺の軽口に、多分少し怒ってる。
どうしてそういうこと言うんですかって表情だ。
《言霊》っていうけど。
こういうことって、やっぱ冗談でも言っちゃいけねーよな。
俺、前にもそれで新八に怒られた前科者だし。
あん時は顎に頭突きを喰らったけ。
ごめんな。
一言、心の中で呟いて。
真一文字に引き結ばれた薄いピンクに俺は自分の唇を寄せる。
怯む細い首筋を、指先で軽く撫でれば肩が揺れるけど。
勿論、逃げ道なんてとっくに封鎖済み。
抗議の色を滲ませて腕を掴む新八の手を、俺は知らない振りをした。


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