白い壁伝いに突き当たる、少し暗い木目調。
「○○の部屋」なんてプレートがかかってるわけじゃない、シンプルなドアだ。
この向こうに新八がいる。
前に立って、俺は手の中のコンビ二の袋を意味もなく一度握りなおした。
銀色のノブをカチャリと回せば素直に開く。
それは部屋の主の心根と同じ。
「……おじゃましまーす」
返事はないだろうと思った。
けど黙って入るのも気が引けて、呟くような挨拶。
扉を開いた瞬間、柑橘系が仄かに香った。
部屋の広さは8畳くらい。
けど物がないからそれ以上に広く見える。
入り口を除いた三面に窓。
日中なら、きっとかなり採光のいい部屋だろう。
今はその全部にカーテンが引かれてるのと時間の所為で室内は薄暗い。
左手に勉強机とクローゼット。
そのクローゼットを足元に置いた形でベッドが長く伸びてた。
つまり俺の真正面。
他は本棚替わりのカラーBOXが一個とゴミ箱くらい。
かなり殺風景な部屋だ。
一頻り見回して俺は後ろ手にそっとドアを閉めた。
一歩踏み出すと微かに床が軋む。
呼吸の音すら新八を起こしちまいそうで、俺は無意識に止めてた息に気付く。
軽く深呼吸。
何でこんなに緊張してんだか。
布団はこんもりしてて、黒い頭がちょこんと見える。
ヘッドボードの上には眼鏡と青いラベルの飲料水、それとオレンジ色の残骸。
仄かに香った柑橘系の正体だった。
緩やかに上下する布団になんとなくほっとする。
起こす気はねーし、けど見てたいし。
微妙な二律背反にどうすればいいのかわからない。
だからとりあえず、脇に腰を下ろした。
座ると目線が丁度よくベッドの上と合う。
枕に乗った頭は後頭部。
新八はどうも壁に向いて寝てるらしい。
そういや保健室でも横になって丸まってたっけな。
なんなんかねー、これ。
すげーぎゅってしてやりたくなる。
この部屋で、この家で、姉ちゃんと二人きりで。
新八はここで何を思ってんだろな。
いつも俺の部屋に来てくれて、いい年こいて俺は貰うばっかで。
何でもいい。
俺にできる事なら、なんだってしてやりてぇよ。
新八が望む事ならなんだって。
たまにはトンでもねぇ我侭の一つも言ってくれりゃいいのによ。
ホント、欲がねーんだよな。
ベッドの淵に額をつけて俺はそっと息を吐いた。
静かだ。
時々車が通る以外に今のところ音がない。
耳が痛いくらいの静けさに、新八の微かな呼吸も空気に溶ける。
それは眠りを誘うくらいに心地がよくて。
新八の気配を感じながら俺はこの部屋の、新八の空気にどっぷりと浸ってた。
のに。
突然大きな音がして、静寂は破られた。
びりびりと空気を揺らすのは、どっかの馬鹿のバックファイヤーだ。
ふざけた事しやがって……。
鼓膜を振るわせる破裂音は案の定、新八の眠りも破っちまった。
「ん……」
もそりと身体が動いて意識が少しずつ浮上してくるのがわかる。
それと同時に。
「……ごほっ……っごほっ……」
眠りの中で折角納まってたものが発作的に新八を襲う。
苦しそうに咳き込んで。
するりとした、衣擦れの音と布団の微かな動きが中で小さく蹲る新八の身体を想像させた。
多分、新八の意識はもう浮上しきってる。
体調の所為で朦朧としてはいるだろうけど。
それでも。
声をかけるタイミングが計れない。
すぐにでもその苦しそうな身体を抱きしめてやりたかったけど、出来なくて。
咳の度に跳ねるように上下する布団を見つめるばかりだった。
苦しげだった咳がようやく治まって、暫く。
布団がムクリと浮き上がった。
そのまま大きく盛り上がって腕だけがペットボトルに伸びる。
中身を飲む為に傾いた頭からするりと布団がずり落ちた。
水分を補給して一息。
「新八」
落ち着いた新八がボトルを置くのを待ってから、俺は漸く控えめに名前を呼んだ。
反射的に呼ばれた方に新八が顔を向ける。
新八の、眼鏡の無い目はこの薄闇の中で俺を認識するだろうか。
確かに俺を見てるのに、新八は視線を固定したまま何も反応を見せない。
それが気にならないでもなかったけども、そんなことより剥き出しになっちまった身体の方が気になって俺は漸く身体を動かすきっかけを掴んだ。
「新八」
もう一度名前を呼んで立ち上がる。
枕のあるちょい下あたりに腰を下ろすと新八とちょっとずれて向き合う感じになった。
「ちゃんと布団入れ」
落ちた掛け布団を捲って促すけど、新八は相変わらず俺を凝視したまま(この距離なら確実に俺の顔は見えてるはず)、布団にも入ろうとしない。
仕方ないから布団の上に置いてあった半纏を肩からかけてやった。
「風邪引いてんだろ、ちゃんと温かくしろ」
こうさせたのは俺だけど。
半纏の上から軽く肩を叩いてようやくピクリと反応を引き出せた。
「……さ、かた……せん、せ……?」
確かめるように俺の輪郭を視線で辿った後、掠れた声が名前を呼ぶ。
「驚かせたなら,ごめんな」
慰めるように言えばゆっくりと新八が首を振る。
否定の仕草にも見えるそれは、でもきっと、俺の言葉への回答じゃない。
例えるなら、信じられない事象への否定の仕草。
新八は俺を見るばかり、首を振るばかりで言葉にならないみたいで。
可哀想になっちまって、俺は指の甲でほっぺに触った。
薄闇の中ではよくわかんねーけど、赤いんだろうなって位に肌は熱い。
寝てた所為も多分あるんだろうけど。
「見舞いに来ちゃったよ、新八君」
少し冗談めかしたのは態度に困ったから。
肌に触れると愛しさは募って。
唇で、掠めるように額に触れる。
見つめた途端に新八の瞳に涙が溢れた。
突然の事に言葉にならなくて。
溜まった涙が溢れて頬を伝うまで。
不謹慎だけど、見惚れちまうような瞬間をただ黙って見詰めてた。
泣きだす理由はわからない。
けど、我慢できる道理もなくて俺は新八に手を伸ばす。
抱き込めば震える肩と鼻を啜る音。
「新八」
お前さ。
俺がいんのに、声出さねーで泣くなんて、んな切ねーことしてくれんなよ。
「泣くなら我慢しねーでちゃんと泣け、な?」
上向かせて指でぬぐっても溢れ出す水は止まらなくて。
「せん、せ……ふ……ぇ」
新八は俺の胸に顔を伏せた。
シャツを引く指先の強さと布地を濡らす涙の熱。
腕の中で、震えるような嗚咽は暫く止まらなくて。
抱き締めるしか出来ない自分が歯がゆくて堪らない。
出会ってから今日まで。
新八がこんな弱さを見せる事はめったになくて。
身体が弱ってる所為もあんのかもしんねーけど、こんな風に溢れる涙を堪えきれないほど俺はこいつに辛い思い、させちまってんだろーな。
少しずつ、新八の呼吸が穏やかさを取り戻してきて。
ぽんぽんと、薄い背中を二回叩く。
「落ち着いたか?」
髪をくしゃり、頭を抱き締めた。
もぞもぞと動いた新八がゆっくりと顔を上げる。
胸に手をついて、上がった顔は涙でくしゃくしゃで。
けど俺が何とかしてやる前に、それはパジャマの袖口で拭われた。
「ごめ、……なさい」
鼻を啜るのは涙の名残。
拭っても、黒い瞳は潤んだままで。
涙の理由を問いたいけれど、知ってしまうのは怖くもあって。
「謝んなって、いったろ?」
新八が謝る事は何もなくて。
悪いのは全部俺。
好きになっちまったのも。
放してやれないのも。
約束の一つだって、こいつにやれないのも。
16の、教え子(俺の生徒じゃねーけど)相手に洒落になってねー俺が全部悪い。
俺がもっと分別のあるちゃんとした大人だったら、こいつにこんな思いさせる事はきっとなかったのにな。
すくい上げてぎゅっと握る、新八の指はやっぱり熱い。
「辛いばっかで、ごめんな」
いつも笑ってくれるから、馬鹿な俺は気付いてやれなくて。
こんな風に、声を殺して一人で泣く夜がどれだけあったんだろう。
新八の口がへの字に曲がって止まっていた涙がまた零れた。
「謝るなって、言ったの……先生、じゃないですか」
「そだな、ごめ……っと」
……んなって言いそうになって。
俺は新八の唇の脇にそっとキスをした。
一度ぐすんと鼻を啜った新八は、仄かに笑ってコテンと俺に寄りかかった。
ごめんなさいって言うかわりにキスをする。
俺が勝手に決めた約束事だけど。
それは少しだけ気持ちを楽にしてくれるような気がした。
4へ 戻る